自己紹介

このブログでは、僕が描いた神話や伝説などに関する絵や、その絵の解説を載せています。
(イラスト、記事の執筆:マゴラカ、ワンタ) ※2024年度より、月・水・金曜日の21時に更新していきます。

2025年12月27日土曜日

「三吉霊神」と「齶田浦神」


三吉霊神(ミヨシノオオカミ)

 秋田県秋田市にある「太平山三吉(たいへいざんみよし)神社」に祀られている三柱の御祭神のうち、現在、当社の中心的な御祭神といえる。秋田県内の中央にそびえる太平山は古くから郷土の人々にとって山岳信仰の対象であり、同社創建後も修験道などと習合して崇敬を集めてきた。そうした地元の信仰と結びついて生まれた地域の守護神である。一説には、太平城主であった「藤原鶴寿丸三吉(ふじわらのつるすまるさんきち)」が戦乱に巻き込まれて太平山に逃れ、世を捨てて太平山の神である「大己貴大神(おおなむちのおおかみ)」と「少彦名大神(すくなひこなのおおかみ)」を深く信仰して現人神(あらひとがみ)となったため、この地の人々がその威徳を尊崇し三吉霊神として祀ったと伝承されている。

出典:
『週刊 日本の神社 第39号』(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
 Geminiで生成。真面目なイメージがあるので、厳めしい顔つきの男性として描かせました。着物の家紋部分には、太平山三吉神社の神紋があります。拙作『アマテラスの力を継ぐ者』に、ぬらりひょんと間違えられるという描写があるので、近くには酒の入った瓢箪も置きました。掛け軸には、太平山っぽい絵を描かせました。


齶田浦神(アギタウラノカミ)

 秋田県秋田市にある「古四王(こしおう)神社」の御祭神の一柱である。齶田浦神はもともと、蝦夷(えみし)の地主神、海洋神ともいわれ、「齶田」は、当地名「秋田」の由来ともなった。古四王神社の創祀は、四道(しどう)将軍のひとり「大毘古命(おおびこのみこと)」が蝦夷征伐の際に「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」(齶田浦神)を祀ったことによる。また「斉明(さいめい)天皇」の時代、「阿倍比羅夫(あべのひらふ)」が同地に遠征。以前から祀られていた社に自らの祖・大毘古命を合祀し、古四王神社が成立した。もとは古代城柵で、「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」ら武人とも縁の深い同社は、鎌倉幕府や秋田藩主の佐竹(さたけ)氏など武家からも篤い崇敬を受けたという。明治15(1882)年には、近代社格制度のもと国幣小社(こくへいしょうしゃ)に列せられ、以降秋田県内の神社では最も高い社格となった。

出典:
『週刊 日本の神社 第39号』(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
 Geminiで生成。海洋神ともされているので、恵比寿(えびす)のようなイメージの温和な表情でふくよかな体型の男性に描かせました。平安時代のような服装の胸元には、古四王神社の神紋があります。曲げわっぱのなかには、タイの代わりに秋田県の名産であるハタハタを入れ、近くには、川熊に盗まれることとなる煙管(きせる)も配置しました。