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2023年7月1日土曜日

「夜刀神」


夜刀神(ヤトノカミ)

「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」行方郡(なめかたぐん)の条に記されている神。谷のことを古語でヤトといい、葦原のような湿地帯のことをヤチという。夜刀神はこの音からついた名前で、湿地帯や谷、沢に棲む神であったようだ。茨城県行方郡玉造町(現・行方市)には、この神を祀る夜刀神社がある。「常陸国風土記」によると、継体(けいたい。第26代)天皇の御代(6世紀前半)に、箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)という人がいた。郡役所の西にあたる谷の葦原を、開墾して新田を造成した。このとき、夜刀(やと)の神が群をなし引き連れて、一匹のこらずやって来た。あちこちとなく妨害をし、田の耕作をさせなかった。土地の人の言うには、蛇のことを夜刀の神という。その形は蛇の身で頭に角がある。一族を蛇の災難より逃れさせようとするとき、振り返って蛇を見る人がいると一家を破滅させ、子孫が絶える。おしなべて、郡役所の傍の野原に甚だたくさん棲んでいる。そこで麻多智はたいそう怒りの心情が昂り、甲鎧を身につけ、自ら仗(ほこ)を手にして、打ち殺し追い払った。山の登り口まで追ってきたところで、境界の標識としての杖を堀に立て、夜刀の神に宣言して言った、「ここから上は神の土地とすることを許そう。ここから下は人が田を耕作する。今から後、自分が神を祀る司祭者となって、永久に敬い祭ってやろう。どうか祟らないでくれ、恨まないでくれ」といって、社を定めて初めて夜刀の神を祭ったという。また神田十町あまりを開墾して、麻多智の子孫がつぎつぎと受け継いで祭を行い、現在まで絶えることがない。その後、孝徳(こうとく。第36代)天皇の御代におよんで、壬生連磨(みぶのむらじまろ)が初めてその谷に立入禁止の標示をして、池の堤を築かせた。そのとき、夜刀の神が池の辺の椎の樹に上り集まって、いつまでも退去しない。そこで麿は大声をあげて叫び、「この池の堤を修築させたのは、要するに民を生活させるためである。どこのなんという名の神が、天皇の威徳に不服だというのか」といった。工事に働く民に命じて言うには、「目に見えるいろいろな物は、魚類・虫類となく気兼ねしたり恐れたりすることなく、すべて打ち殺せ」と言い終ると同時に、蛇神は逃げ隠れたのである。

出典:
幻想世界の住人たちⅣ 日本編(新紀元社)
風土記 上 現代語訳付き(角川ソフィア文庫)

作者ひとこと:
夜刀神のデザインは、頭に大きな鹿の枝角の様な角を生やした、巨大な蛇の姿の神に描きました。

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