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2020年2月13日木曜日
「今木神」
今木神(イマキノカミ)<今木皇大神(イマキスメオオカミ)>
日本において信仰される神の一柱で、京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社に御祭神として鎮まっている。平野神社の創建は延暦13(794)年、桓武天皇の平安京遷都に伴い、平城京の田村後宮から、平野の地に遷されたという。また、近年の研究によると、元々は桓武天皇の生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って、平安京大内裏近くに移し祀られた事に始まると推測されている。現在の平野神社の本殿は四殿二棟からなり、第一殿に「今木皇大神(イマキスメオオカミ)」、第二殿に「九度大神(クドノオオカミ)」、第三殿に「古開大神」、第四殿に「比賣大神(ヒメノオオカミ)」の四座の神々が平野神社の御祭神である。これら、四柱の御祭神の内、今木皇大神(今木神)が主神である。また、平野神社の御祭神四柱の神々の総称である「平野神」という呼称は、元々は主神である今木神のみを指す呼称であったが、後に御祭神四柱の総称としての使用にも変化している。今木神は、「今」=「現在」、「木」=「大きく太く真っ直ぐに育つ事」を表す神であるとされ、源気新生、活力生成の神であるとされている。今木神は延暦元(782)年当時、平城京の田村後宮に祀られていた。それ以前の出自については諸説があり、特に知られている説では、今木神の「今木」を「今来」、即ち、新しく来た渡来人の意味であるとして、元々、この神は「今来郡(大和国高市郡)」で渡来人である百済系の人々が祀っていた渡来神であったという説である。その説では、今来郡で百済系の人々が祀っていた神を、平城京の田村後宮に遷して祭祀したのは、高野新笠とその子「山部親王(後の桓武天皇)」とされ、高野新笠の父「和乙継(ヤマトノオトツグ)」の出自である「和氏(ヤマトウジ)」は「続日本紀(ショクニホンギ)」では和氏の出自は百済武寧王の子の純陀太子を始祖とする氏族と記し、和氏は渡来系の氏族であるとする。その和氏の和乙継の娘、高野新笠が田村後宮に祀った今木神とは、和氏の祖神である百済系の渡来神であるという説である。しかし、平野神社ではこの渡来神説を誤りとしている。また、奈良時代末期から「臣籍降下(シンセキコウカ)」(皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りる事)の制度が定まり、「源(ミナモト)」、「平(タイラ)」、高階(タカシナ)」、「大江(オオエ)」、「中原(ナカハラ)」、「清原(キヨハラ)」、「秋篠(アキシノ)」、「菅原(スガワラ)」の姓を賜る者が出てくる。平野神社の御祭神、四柱の総称である平野大神は、この八姓各家の氏神とされている。平野大神の中で今木神は源氏の氏神であるとされる。
出典:
Wikipedia
平野神社 オフィシャルサイト
週刊 日本の神社 第61号「松尾大社・平野神社」(デアゴスティーニ・ジャパン)
作者ひとこと:
今木神のデザインは頭に冠を被り、羽衣と衣を纏った神の姿に描きました。
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