阿弥陀如来(アミダニョライ)
阿弥陀如来は、その寿命が無限である事から「無量寿如来(ムリョウジュニョライ)」とも称し、またその光りが無限に十方世界を照らす事から「無量光如来(ムリョウコウニョライ)」とも称し、西方極楽浄土の教主とされる。阿弥陀如来の阿弥陀はサンスクリット語の「アミターバ」、または「アミターユス」の音写。阿弥陀如来は、インドから中国、朝鮮半島を経て、日本にも早い時期に信仰、作例ともに伝わったとみられる。「無量寿経(むりょうじゅきょう)」「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」「阿弥陀経(あみだきょう)」の、いわゆる浄土三部経を主たる典拠として、阿弥陀如来が念仏を行う衆生を救って必ず極楽に往生させるという第十八願に代表される「阿弥陀如来の四十八願」をもとに、死後の安楽を約束し極楽往生をかなえる仏として、中国では曇鸞(どんらん)・道綽(どうしゃく)・善導(ぜんどう)らによって信仰が広められた。特に日本では、平安時代に末法思想が広まり、さらに法然(ほうねん)・親鸞(しんらん)達により浄土教が発展して以降、現代にいたるまで、最も一般的に信仰される仏の1つとなっている。その姿形にはいくつかあり、時代の変遷による流行も見られる。独尊でつくられる場合もあり、また、脇侍として「観音菩薩(カンノンボサツ)」「勢至菩薩(セイシボサツ)」を従える場合も多い。さらに、二十五菩薩を従え、雲に乗って往生者を迎えにやって来る。まさに「聖衆来迎(しょうじゅらいごう)」の様子を表す場合もある。あるいは、当麻曼荼羅(たいままんだら)に代表される阿弥陀浄土変相図(浄土曼荼羅)中に、西方極楽浄土の教主として表される例も数多い。右手で施無畏印(せむいいん)、左手で与願印(よがんいん)を結ぶ阿弥陀像が7世紀につくられる。これらは施無畏・与願印の通仏相のため、独尊では「釈迦如来(シャカニョライ)」などと見分けがつかないが、脇侍が冠の正面に化仏(けぶつ)・水瓶(すいびょう)を付けているため観音・勢至菩薩とわかり、したがって中尊が阿弥陀如来と判明する。これと同様に古くからあるのが、両手を胸前で構える転法輪印(てんぽうりんいん。説法印(せっぽういん)ともいう)を結ぶ阿弥陀如来像である。平安時代初期以前の像に多く見られる。平安時代に密教がもたらされたのにともない、観想の対象として、新たに密教の曼荼羅中に阿弥陀像にもとづいて造像が行われるようになった。坐像で、両手を腹前で法界定印(ほっかいじょういん)の様に結ぶが、第2指を曲げるのが特色で、これを「阿弥陀の定印」と呼んでいる。この定印像は、きわめて多くの作例が残されている。一方、末法思想の流布にともない、阿弥陀の来迎という事が注目されるようになった平安時代後期には、来迎の姿の阿弥陀如来像がつくられるようになった。これの印相は施無畏・与願印に似ているが、第1指ともう1本の指を捻じるのが特色で、来迎印(らいごういん)と称している。来迎印像は、定印像とともに最も多くつくられた像の形である。また、九品往生の考えをもとにして、必ず極楽往生できるように、9体の阿弥陀如来像を並べた「九体阿弥陀像」もつくられた。特殊な姿の阿弥陀如来像としては、善光寺式阿弥陀三尊、宝冠阿弥陀像、裸形阿弥陀像、斜め後ろを振り返った、見返り阿弥陀像などがある。この見返り阿弥陀像は、京都・禅林寺永観堂を中興した永観(えいかん)が念仏修行の行道をしていた際に、阿弥陀如来が壇上から降りて永観を先導したところ、驚いて永観が立ち止まり、阿弥陀如来が振り返って「永観遅し」と言ったときの姿をとどめたものという。
出典:
エソテリカ事典シリーズ(1)仏尊の事典(学研)
作者ひとこと:
阿弥陀如来のデザインは、坐っており、後ろに光背がある如来の姿に描きました。
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