文殊菩薩(モンジュボサツ)
仏教の信仰対象である菩薩の内の一尊。文殊菩薩という名前の「文殊」は、「文殊師利(モンジュシリ)(サンスクリット語での名前・マンジュシュリー)」の略で、この文殊菩薩は、インドで生まれた実在の人物とも言われ、「普賢菩薩(フゲンボサツ)」と共に諸菩薩の中でも特に重要な尊格である。文殊菩薩は普賢菩薩と共に「釈迦如来(シャカニョライ)」の脇侍として表され、「釈迦三尊」を構成する。その他、「知恵の文殊」や「三人寄れば文殊の知恵」とも言われるように、諸仏の知恵を象徴する菩薩としても著名で、学問成就や受験成就を願う学生が願かけを行う事でも知られている。文殊菩薩に関する様々な説話も諸経典に伝えられており、「維摩経(ゆいまきょう)」には、論客として知られた「維摩居士(ユイマコジ)」が、病床にあって釈迦の説法場に参集できなかったため、釈迦が見舞いに行くように仏弟子達に命じたところ、維摩居士との論戦を恐れて誰も行きたがらない。そこで釈迦の名代として文殊菩薩が訪ねて、仏法について維摩居士と論戦を交えた事が伝えられる。また「旧華厳経(きゅうけごんきょう)」に、文殊菩薩の住所を「東北方の清涼山(せいりょうざん)」と説くため、中国では北魏時代(386~534)から山西省五台山(ごだいさん)が文殊の聖地・清涼山に比定されて信仰を集め、やがてその信仰は「円仁(えんにん)」によって日本にもたらされた。獅子に乗る文殊菩薩に、先導する善財童子(ゼンザイドウジ)と獅子の手綱をとる「優塡王(ウデンオウ)」、これに「仏陀波利三蔵(ブッダハリサンゾウ)」と「最勝老人(サイショウロウジン)」が従う文殊五尊の形式は、特に「五台山文殊」と呼ばれる。更に発展して、雲に乗って海を渡り五台山に向かう「渡海文殊」も成立した。とりわけ天台宗を中心に五台山信仰は盛んとなった。また「法華経(ほけきょう)」の「提婆達多品(だいばだったぼん)」では、竜王の8歳の娘が、文殊菩薩の導きで男身となり、成仏したと説かれる。一方、唐時代には、文殊菩薩が知恵と戒律の師としても大いに尊敬を受け、これが僧侶の日常生活の手本として僧形(そうぎょう)で表された。これを「僧形(聖僧)文殊」と言い、寺内の食堂(じきどう)の本尊とされる事が多い。また、鎌倉時代には、戒律を復興し釈迦信仰の重要性を叫んだ叡尊(えいそん)や忍性(にんしょう)らによって重んじられ、貧しい者の為に宿を設け、そこに彫像や画像の文殊菩薩が祀られた。更に、文殊菩薩の知恵は童子の様に純粋無垢で執着のない事から、童子の姿で表す事も多く、近世にはまったくの子供の姿をした「稚児文殊」なども制作された。なお、「日本三文殊」として奈良・桜井の安倍文殊院、京都・天橋立の切戸の文殊(知恩寺)、京都・東山の黒谷(金戒光明寺)文殊堂の本尊が知られる。一般によく知られている文殊菩薩像の形は、その知恵の威力を象徴するため、獅子の背上に乗り、蓮華座に坐すことで、頭に五髻(ごけい。5つの髻)を結い、右手に知恵の象徴である剣をとる姿であるが、梵篋(ぼんきょう。経巻を納めた箱、または椰子の葉に書かれた経典)、金剛杵を立てた蓮台などを持つ事もある。更に、頭の髻の結び数には、5髻の他1髻・6髻・8髻の文殊があり、それぞれの真言の字数により一字・五字・六字・八字文殊と称するが、一字文殊は増益、五字文殊は敬愛、六字文殊は調伏、八字文殊は息災など修法の本尊として迎えられる。文殊菩薩に従う眷属には、先述の「五台山文殊」の場合の善財童子・優塡王・仏陀波利三蔵・最勝老人と、また「八大童子」として「光網童子(コウモウドウジ)(光網菩薩)」「宝冠童子(ホウカンドウジ)(宝冠菩薩)」「無垢光童子(ムクコウドウジ)(無垢光菩薩)」「髻設尼童子(ケシニドウジ)(髻設)」「烏波髻設尼童子(ウバケシニドウジ)」「質多羅童子(シッタラドウジ)」「地慧幢(チエトウドウジ)」「請召童子(ショウジョウドウジ)」を挙げる事がある。文殊菩薩の遺例としては、奈良・法隆寺五重塔の初層内に維摩居士と文殊菩薩の問答の場面を塑像の群像で表したものが、奈良時代の古例。奈良・興福寺の東金堂にも、鎌倉時代の仏師・定慶(じょうけい)作の維摩居士・文殊菩薩像がある。五尊像としての造像は、平安時代の高知・竹林寺像、鎌倉時代の仏師・快慶(かいけい)作の奈良・安倍文殊院像などがある。
出典:
エソテリカ事典シリーズ(1)仏尊の事典(学研)
作者ひとこと:
文殊菩薩のデザインは、手に剣と蓮華を持った菩薩の姿に描きました。
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