自己紹介

このブログでは、僕が描いた神話や伝説などに関する絵や、その絵の解説を載せています。
(イラスト、記事の執筆:マゴラカ、ワンタ) ※2024年度より、月・水・金曜日の21時に更新していきます。

2021年6月30日水曜日

「嫉妬鬼」


嫉妬鬼(シットキ)

密教仏教経典の「仏説灌頂七万二千神王護比丘呪経」の巻第八では、舎衛国(しゃえいこく(古代インドのコーサラ国にあった首都「舎衛城(しゃえいじょう)」の事))の祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん(コーサラ国の首都「舎衛城」にあった寺院「祇園精舎」の事))において仏陀が、人々を悩ませ害する鬼神の威力を除く為に、「摩尼羅亶大神呪経」というお経の読み方を教えている。その経典の中には多くの鬼神達の名前が含まれており、この経典の中の鬼神の名前を呼べば、名前を呼ばれた鬼神達は人々を害する事が出来なくなるという。嫉妬鬼も、この経典の中に名前が記されている人々を悩ませ害する鬼神達の内の一つである。嫉妬鬼は、水中に棲む精魅鬼の内に入っている鬼神である。嫉妬鬼の性質は記されていないが、名前がそのまま、この鬼神の行動や容姿を表すのだろう。

出典:
Wikipedia
幻想動物の事典

作者ひとこと:
嫉妬鬼のデザインは、頭だけの鬼か般若の様な姿の妖怪に描きました。嫉妬に狂って人間である事を辞めて、鬼や怨霊になってしまったイメージをデザインしました。また、別の解釈で、生きている人間に囁いて心の嫉妬心を湧き上がらせる、悪魔の様なイメージも入っています。

2021年6月29日火曜日

「溝澗死鬼」


溝澗死鬼(コウカンシキ)

密教仏教経典の「仏説灌頂七万二千神王護比丘呪経」の巻第八では、舎衛国(しゃえいこく(古代インドのコーサラ国にあった首都「舎衛城(しゃえいじょう)」の事))の祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん(コーサラ国の首都「舎衛城」にあった寺院「祇園精舎」の事))において仏陀が、人々を悩ませ害する鬼神の威力を除く為に、「摩尼羅亶大神呪経」というお経の読み方を教えている。その経典の中には多くの鬼神達の名前が含まれており、この経典の中の鬼神の名前を呼べば、名前を呼ばれた鬼神達は人々を害する事が出来なくなるという。溝澗死鬼も、この経典の中に名前が記されている人々を悩ませ害する鬼神達の内の一つである。溝澗死鬼は、水中に棲む精魅鬼の内に入っている鬼神である。溝澗死鬼の性質は記されていないが、名前がそのまま、この鬼神の行動や容姿を表すのだろう。「溝(コウ)」という字は「みぞ、ほり、どぶ、掘り割り、水を通す道、用水路、下水道。また、みぞを掘る。へだてる、みぞを掘ってへだてる」という意味がある。「澗(カン、ケン)」という字は「たに、たにみず、谷川」という意味がある。

出典:
Wikipedia
幻想動物の事典
漢字辞典オンライン

作者ひとこと:
溝澗死鬼のデザインは、魚の様な姿の妖怪の姿にデザインしました。名前のイメージから、この鬼神は谷川の水中に棲んでおり、釣りなどで谷川にやって来る人間を水中に引きずり込んで溺死させるというイメージを持ちました。

2021年6月28日月曜日

明日から仏教編(2)スタート【お知らせ】

2021年3月19日金曜日
「意富斗能地神」



2021年6月27日日曜日
「ルヤムベニトネブ」



「幻獣編」「シベリア周辺の地域編」「日本編」「中国編」「オセアニア編」「北米編」「中国編(2)」「悪魔・堕天使編」「日本編(2)」「インド・中国編」「オセアニア偏(2)」「日本編(3)」「仏教編」「中国編(3)」「東南アジア編」「日本編(4)」の16シリーズが終了し、明日からは17シリーズ目の「仏教編(2)」が始まります。約100日(約3ヶ月)かけて、全100体を紹介していきます。


お楽しみに。 by ワンタ

2021年6月27日日曜日

「ルヤムベニトネブ」


ルヤムベニトネブ<ルヤンベニッネプ>

アイヌに伝わる妖怪。「嵐の魔物」というような意味になる。大雨や嵐が起きた際、人々は地上にこの妖怪が現れたと考えたようだ。もし嵐や大雨が来た場合、人々は小屋の外の棒にざるを刺し、「お前ができるなら、水でそれを一杯にしてみろ。できないなら、立ち去る方がいい」と告げる風習があったようだ。ジョン・バチラー(バチェラー)著『アイヌの伝承と民族』にある。同書によれば、これは「アプトルヤンベウェンユク」と同じものだという。アプトルヤンベウェンユクは「暴風雨の魔物」というような意味の名前を持つ。大雨が降る場合は、この妖怪が地上を訪れているのだと考えられた。吹雪を妖怪視した「ウパスルヤンベウェンユク」と同じく、荒天を妖怪視したものなのだろう。

出典:
日本怪異妖怪事典 北海道(笠間書院)

作者ひとこと:
ルヤムベニトネブのデザインは、この妖怪が大雨や嵐を引き起こすというので、蛙の様な両生類の姿の妖怪に描きました。天からやって来る感じで、鰭の様な翼で空を飛び回るイメージです。

2021年6月26日土曜日

「ミシャグジ様」


ミシャグジ様(ミシャグジサマ)

日本で信仰されている神。ミシャグジ様は、長野県諏訪地方の土着神であり、祟り神の一種である。ミシャグジ様はだいたい男性器の風貌で祭られ、男性器を思わせる大蛇や龍神の姿で描かれる。このミシャグジ様の前身は、「大国主神(オオクニヌシノカミ)」の次男、「建御名方神(タケミナカタノカミ)」であるとされていたり、諏訪の外からやって来た建御名方神に敗北して祭神を下ろされた土着神がミシャグジ様であるとも言われている。また、建御名方神そのものがミシャグジ様の一種だとも言われている。ミシャグジ様はまた、諏訪大社の神官一族である「守矢氏」により祀られていた神で、一般には「モレヤ神」、或いは「洩矢神」と呼ばれていた。またミシャグジ様は、木の神、石の神であり、典型的な自然神であると同時に、神官に憑依して託宣を下す神であったという。このとき託宣を伝える神官は一年神官で、年次ごとに守矢一族の中から選ばれ、一年間の任期が終わり、次代の継承者が決定すると同時に殺されていたという。この様に、古代の諏訪大社では神の為に人間の命を捧げる人身御供が行われていた可能性があると言われている。ミシャグジ様は8歳の少年を依り代にする神ともいわれている。江戸時代後期の旅行家、博物学者「菅江真澄(すがえ ますみ)」が1784年に諏訪を訪れ御頭祭などを見て書き残した「すわのうみ」の中に、「御贄柱」と、そこに縛り付けられる一年神主(一年神官)の「大祝(おおはふり)」の少年の事が書かれている。しかし、それさえもすでにかなり近代化した祭事だったようで元がどのような形式だったのかは分からない。ミシャグジ様の儀式に共通するのが人身御供や人柱と呼ばれる者に選ばれるのが、未成年の少年だったということだ。日本各地の昔話や伝説を見る限り、人身御供に選ばれるのは未成年の女子である例が圧倒的に多いため諏訪社は珍しい例だといえるかもしれない。また、日本のシャーマンといえば巫女やイタコなどに見られるように、女性である事が一般的だが、諏訪社で一年神主としてシャーマン役を果たしていたと言われるのが少年という点も同じく珍しいと言えるだろう。逆にいえば少年は生神としての崇拝対象にされるだけの者だった可能性もある。また、「大祝」という呼び名だが、元々「ハフリ」とは神職の一種を指す言葉である。そしてハフリには別に「葬り」という意味もある。神の移し身として即位した生神(少年)を殺し葬り、祝いの祭事で奉り神へ昇華させる意味を大祝という言葉は含んでいたのかもしれない。ミシャグジ様は、東日本全体で信仰されていたと思われ、地方によって信仰形態も異なっている。また、この神はマタギを始めとする山人達からも信仰されていた事から、元々縄文の神だったとも考えられる。

出典:
ピクシブ百科事典
神魔精妖名辞典(「みしゃぐじ神」のページ)

作者ひとこと:
ミシャグジ様のデザインは、沢山の触手が生えている姿の精霊か神の姿に描きました。沢山生えている触手は、長い蛇の尾を連想させるイメージにしています。

2021年6月25日金曜日

「オシンメ様」


オシンメ様(オシンメサマ)

日本で信仰されている神。オシンメ様は、福島県で信仰されている家の神で、「オシラサマ(東北地方に広く分布する家の神。桑の木の先に男女一対の顔や馬頭などをつけ、オセンダクと呼ばれる衣を着せたものを家の神棚に飾って、オシラサマとして祈る)」に類似した神である。巫女が祈る時に、オシンメ様を手に持って振りながら踊る。福島県相馬郡飯舘村では、オシンメ様は、30cm足らずの棒に布のついている一対のお雛様であるという。このオシンメ様を両手で持って頭や肩をたたくと、頭痛や肩こりに効果があるといわれた。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)
怪異・妖怪伝承データベース

作者ひとこと:
オシンメ様のデザインは、衣を身に纏って雲に乗っている、馬の様な頭の神の姿に描きました。

2021年6月24日木曜日

「二恨坊の火」


二恨坊の火(ニコンボウノヒ)<二恨坊の火、仁光坊の火>

日本に伝わる怪火、または妖怪の一種。二恨坊の火は、摂津国二階堂村(現在の大阪府茨木市二階堂)、摂津国高槻村(現在の大阪府高槻市)に伝わる怪火である。この怪火は3月~7月頃までの時期に出没し、怪火の大きさは1尺程、火の中には人間の顔の様に目、鼻、口の様なものがある。この怪火は鳥の様に空を飛び回り、家の棟や木にとまる。この二恨坊の火は、人間に対して特に危害を加える事はないという。二恨坊の火は、特に曇った夜に出没したもので、近くに人間がいると、二恨坊の火の方が人間を恐れて、逆に飛び去ってしまう。寛保時代の雑書「諸国里人談」にある記述によると、かつて二階堂村に「日光坊」という名の山伏がおり、病気を治す力がある山伏として評判だった。その噂を聞いた村長が自分の妻の治療を日光坊に依頼し、依頼を受けた日光坊は祈祷によって村長の妻の病気を治した。ところが村長はそれを感謝するどころか、日光坊と妻が密通したと思い込み、日光坊を殺してしまった。村長に殺された日光坊の怨みは怨霊の火となって夜な夜な村長の家に出現し、遂には村長を取り殺してしまった。この「日光坊の火」が、やがて「二恨坊の火」と呼ばれるようになった、とある。また、江戸時代の書物「本朝故事因縁集」の記述によると、かつて二階堂村に一人の山伏がおり、この山伏は一生の内に二つの怨みを抱いていた為、「二恨坊」とあだ名されていた。彼は死んだ後に魔道に堕ちたが、その邪心は火の玉となって現世に現れ、その火の玉は「二恨坊の火」と呼ばれるようになった、とある。また、江戸時代の怪談本「宿直草」や、江戸時代前期の文人・山岡元隣(やまおか げんりん)による怪談本「古今百物語評判」にある記述によると、かつて「仁光坊」という美しい僧侶がいたが、代官の女房の策略によって殺害された。以来、その殺害された仁光坊の怨みの念が火の玉となって出没し、「仁光坊の火」と呼ばれるようになった、とある。 

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
二恨坊の火のデザインは、火の中に僧侶の頭がある姿の怪火の姿にデザインしました。

2021年6月23日水曜日

「白溶裔」


白溶裔(シロウネリ)<白容裔>

日本に伝わる妖怪で、江戸時代中期の画家、浮世絵師の「鳥山石燕(とりやま せきえん)」の妖怪画集「画図百器徒然袋(がずひゃっきつれづれぶくろ)」に描かれている。画図百器徒然袋には、ぼろい布で出来た竜の様な姿の妖怪が描かれており、解説には「白うるりは徒然のならいなるよし。この白うねりはふるき布巾のばけたるものなれども、外にならいもやはべると、夢のうちにおもひぬ」と記されている。「白うるり」とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家「吉田兼好(よしだ けんこう)」が書いたとされる随筆「徒然草(つれづれぐさ)」第六十段に登場する、芋頭が異常に好きな坊主のあだ名である。白溶裔は、この白うるりという名前をもじって名付けられたものであり、石燕の創作による妖怪であると考えられている。石燕による解説文には「ふるき布巾のばけたるもの」とあり、この白溶裔という妖怪は、古い布巾や布雑巾が化けたものとされる。なお、石燕の「シロウネリ」の表記は絵では「白容裔」の文字が用いられているが、目次部分では「白溶裔」が使われている。この「白容裔」の容裔の部分、「容裔(ようえい)」という熟語は「風でものがなびく様子」を示す。昭和・平成以降の妖怪関連の書籍では、「白うねり」あるいは「白溶裔」と表記され、古い雑巾や布巾がこの妖怪に変化し、この白溶裔は人間を襲い、白溶裔の体を覆う不快な粘液と全身から放つ悪臭で人間を気絶させる、という解説がしばしば見られるが、これは小説家の「山田野理夫(やまだ のりお)」の著作「東北怪談の旅」に収録されている「古ぞうきんの仇討ち」における古雑巾の行動などが引用されていると見られている。同書では岩手県の藩士を下女が殺して逃げようとしたところ、家の古雑巾が下女の顔に飛びつき、そのまま下女を窒息死させたとある。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
白溶裔のデザインは、「画図百器徒然袋」の絵を参考にして、竜の様な姿の雑巾か布巾の妖怪の姿に描きました。

2021年6月22日火曜日

「シラミユウレン」


シラミユウレン<シラミ>

日本に伝わる海の怪異、または妖怪の一種。シラミユウレンは、愛媛県北宇和郡下波村(現在の宇和島市)に伝わる水難者などの亡霊の呼び名である。夜の海に死者の亡霊が白く光って泳いでくる事があったといい、これがシラミユウレンである。このシラミユウレンを漁師達は「馬鹿」と呼んでいる。しかし、もし「馬鹿」と言っているのがシラミユウレンに聞こえてしまうと、シラミユウレンは怒って、櫓にすがりつくなどして漁師を散々な目に遭わせる。また、このシラミユウレンは水難者の命日やお盆の日にも海に出現し、その様な日に漁師が船で海に出ると、海中からシラミユウレンが沢山現れて、その船に纏わり付いて船速を遅くさせたり喫水線を深く沈ませたりする。このシラミユウレンは宇和島の海によく現れたといい、明治時代まではシラミユウレンの姿はよく見られたという。シラミユウレンは、船で沖に出ると出現する。青白く光る巨大なソウメンの様なものが海面に現れ、船の周りをグルグル高速で廻る。これは突然フワフワと現れ、あっという間に大きくなる。これが出たからといって何か不吉な事があるわけでも、これに廻られた船に何か不幸が訪れる事もなく、ただ廻るだけの妖怪の様である、とも伝えられている。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
ピクシブ百科事典
[妖怪図鑑]新版TYZ(「シラミ」のページ)
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
シラミユウレンのデザインは、シラミユウレンが「青白く光る巨大なソウメンの様」ともされているので、細長いソウメンの様な毛で全身が覆われている霊の姿に描きました。

2021年6月21日月曜日

「イクチ」


イクチ

日本に伝わる海の幻獣、または妖怪の一種。イクチは、津村淙庵(つむら そうあん)による「譚海」、根岸鎮衛(ねぎし しずもり)による「耳袋」などの江戸時代の随筆に記述がある。「譚海」などによれば、このイクチは常陸国(現在の茨城県)の沖にいた怪魚で、その体長が2km(数千km、という説もある)にも及ぶ巨体を持つ鰻の様な姿をした怪魚である。このイクチは嵐、または大風の日に現れ、沖を行く船を見つけると接近し、その船をまたいで通過して行くが、体長が2km~数千kmにも及ぶため、船の上を通過するのに12刻(3時間弱)から時には数日もかかる。しかもイクチの体表からは粘着質の油が止め処なく染み出しており、イクチが船をまたぐ際にこの油を大量に船上にこぼして行くので、うっかりしていると船がこの油で沈没してしまう。だから、このイクチに遭遇したら、その船の船頭や船乗り達は黙って笠などでイクチの体表からこぼれる油を汲みだし、海に捨てるものだとされる。「耳袋」ではイクチは「いくじ」の名で述べられており、西海から南海(近畿地方、九州)にかけて時折現れ、船の舳先などにかかるものとされている。これは鰻の様に非常に長いもので、船を通過するのに2、3日もかかるとあり、「いくじなき」という俗諺は、これが由来とされている。また同書では、ある人物が「豆州八丈(現在の東京都八丈島)の海に、いくじの小さいものと思われるものがいるが、それは輪になる鰻状のもので、目や口がなく動いているものなので、船の舳先へかかるものも、長く伸びて動くのではなく、丸くなって回るものだ」と語ったという。鳥山石燕(とりやま せきえん)は「今昔百鬼拾遺」で「あやかし」の名で巨大な海蛇を描いているが、これはこのイクチをアヤカシ(海の怪異)として描いたものである。平成以降では、イクチを怪魚ではなく巨大なウミヘビとの解釈や、海で溺死した人間達が仲間を求める姿がイクチだとの説もある。鳥山石燕による妖怪画が未確認生物(UMA)の「シーサーペント」と酷似している事から、イクチをシーサーペントと同一のものとする指摘もある。

出典:
Wikipedia
ピクシブ百科事典

作者ひとこと:
イクチのデザインは、頭に目も口も無い、巨大な鰻や海蛇の様な姿の怪魚に描きました。

2021年6月20日日曜日

「オシラサマ」


オシラサマ<おしら様、お白様、オシラ様、オシラガミ、オシラホトケ、桑の木人形(カノキジンジョウ)「オシンメ様、オシンメイ様」(福島県)、オコナイ様(山形県)

日本の東北地方で信仰されている家の神。また一般には、このオシラサマは、蚕の神、農業の神、馬の神でもあるとされる。このオシラサマは、茨城県などでも伝承されているが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり、宮城県北部にも密に分布する。このオシラサマの御神体は、多くは桑の木で作った1尺(30cm)程度の棒の先に、男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。この衣には、貫頭衣のかたちをしたものと、布を頭部から被せた包頭型とがある。このオシラサマの御神体は、普段は住宅の神棚や床の間に祀られている事が多い。記年銘のある最古のオシラサマは、岩手県九戸郡種市町(現在の洋野町)に所在する大永5年(1525年)のもので、ついで岩手県下閉伊郡新里村および同郡川井村(いずれも現在の宮古市)の天正2年(1574年)のものが古い。このオシラサマの御神体は、男と女、馬と娘、馬と男など2体1対で祀られることが多い。オシラサマの祭日を「命日(めいにち)」と言い、旧暦1月・3月・9月の16日に行われる。この命日には、オシラサマを神棚などから出して神饌を供え、新しい衣をオシラサマに重ね着させる(これを「オセンダク」という)。この日は、本家の老婆が養蚕の由来を伝える祭文(おしら祭文)を唱えたり、少女がオシラサマの御神体を背負って遊ばせたりするので、かつてオシラサマは、同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていた神とも考えられる。またここに、盲目の巫女であるイタコが参加する事も多く、その場合、イタコがオシラサマに向かって神寄せの経文を唱え、オシラサマを手に持って祭文を唱えながら踊らせる。オシラサマに限っては祭る事を「遊ばせる」といい、この様な行事を「オシラアソバセ」「オシラ遊び」「オシラホロキ」と呼ばれる。また、青森県弘前市坂元の久渡寺では「大白羅講」が5月15日に行われる。このオシラサマの2体の人形をつかって遊ばせる際の「おしら祭文」としては、「きまん(金満)長者物語」「満能長者物語」「せんだん栗毛」「岩木山一代記」などがあり、坂上田村麻呂伝承の猿賀神社の由来を同時に語るとも伝えられる。イタコが参与する場合は、この様な祭文を語りながら、オシラサマ一対を両手にとって打ち振り、憑依したような状態になって託宣をおこなう事が多い。このオシラサマの信仰には多数の禁忌がある。例えば、オシラサマは二足四足の動物の肉や卵を嫌うとされ、これをオシラサマに供えてしまうと、供えてしまった者は大病を患うとか、オシラサマの祟りで顔が曲がるという。また、オシラサマを祀っている家の家人の食肉により、祟りで顔が曲がるとも言われる。また、オシラサマは一度拝むとずっと拝まなければならない神であるといわれ、オシラサマを拝むのをやめたり、祀り方が粗末だと家族に祟りがあるとも言われている。このオシラサマは子供好きな神様だと言われ、各地に、子供達と遊んでいるところを注意した大人が逆にオシラサマに祟られたり、オシラサマが火事から家を守った、などの話が伝わる。オシラサマは、女性の病の治療を祈る神、目の神、子の神としての他、農耕神として田植え、草取り、穀物の刈り入れなどに助力するともいう。また「遠野物語拾遺」には、かつて狩人が狩猟の際、どちらの山に行けばいいかを知るため、オシラサマの御神体を両手に持ち廻し、そのオシラサマの馬面の向いた方角へ行く風習があったため、オシラサマは「お知らせ様」であろう、とある。またオシラサマは、地震、火事などの予知力もあり、「遠野物語拾遺」では、オシラサマを「鉤仏(カギボトケ)」と称して、正月16日の「おしら遊び」の日に子供達が1年間の吉凶善悪の神意を問うたという。オシラサマ信仰誕生の背景に山神信仰や、養蚕作業、生活の糧の馬に対する信仰その他が混ざり、原初的な多様な性格を有する神として成立したものとする見方もある。東北地方には、オシラサマの成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある農家に娘がおり、この娘は家の飼い馬と仲が良く、遂には馬と夫婦になってしまった。これに娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、死んだ馬にすがりついて泣いた。すると父親は更に怒り、馬の首を刎ねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、オシラサマとなったのだという。「聴耳草紙」にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、臼の中の蚕虫を桑の葉で飼う事を教え、その蚕虫に絹糸を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている。オシラサマの由来譚について、津軽の口承によると、かつて盲人が峠の空家に泊まり、寂しさを紛らわすために歌を歌っていると、歌を所望する女の声が聞こえたので、何曲か歌ってやった。夜明け頃、その女の声は自分を「たこ」と名乗り、自分の事を他の者に話せば、お前の命はない、と戒めた。里に降りた盲人が、つい村人に昨晩の事を話すと、そのまま盲人は死んでしまった。そこに「たこ」が現れ、村人達に対しても、自分の事を他言した者は死ぬ、更に、この村は沼に沈むと言った。そこで村人達は峠の周囲を鉄柵で覆うと「たこ」は峠に帰れなくなり、そのまま死んでしまい、死んだ「たこ」の正体は蛇であった。村人達は「たこ」と盲人を神として祀り、これが後のオシラサマだという。

出典:
Wikipedia

作者ひとこと:
オシラサマのデザインは、両手に黒と白の蚕を持った精霊の様な神の様な姿に描きました。

2021年6月19日土曜日

「石長比売命」


石長比売命(イワナガヒメノミコト)<磐長姫>

日本神話(「日本書紀」「古事記」の記紀神話)に登場する女神。石長比売命は、「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘で、「木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)」の姉である。神話によると木花之佐久夜毘売命は、日向に降臨した、「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」の孫「邇邇芸命(ニニギノミコト)」と、笠沙の岬で出逢い、邇邇芸命から求婚される。木花之佐久夜毘売命の父である大山津見神はそれを喜んで、木花之佐久夜毘売命と、その姉である石長比売命を共に、邇邇芸命に差し出したが、邇邇芸命は醜い石長比売命を送り返し、美しい妹の木花之佐久夜毘売命とだけ結婚した。大山津見神はこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのは石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇芸命)の命は岩の様に永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。木花之佐久夜毘売だけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花の様に儚くなるだろう」と告げた。それで、その子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。また「日本書紀」には、妊娠した木花開耶姫(木花之佐久夜毘売命)を磐長姫(石長比売命)が呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている。また「古事記」において大山津見神の娘で、「須佐之男命(スサノオノミコト)」の子の「八島士奴美神(ヤシマジヌミノカミ)」と結婚する、「木花知流比売(コノハナチルヒメ)」は石長比売命の別名であるとする説もある。この石長比売命は、岩の永遠性を表す女神とされる。また石長比売命の名義は「岩のように長久に変わることのない女性」と考えられる。また神話から、石長比売命は不老長生の女神として信仰される。石長比売命だけを祀る神社は、雲見浅間神社(静岡県賀茂郡松崎町)、大室山(静岡県伊東市)の浅間神社、伊豆神社(岐阜県岐阜市切通)が挙げられるが、その数は少なく、全国のその他の浅間神社では木花之佐久夜毘売命と共に祀られている。また、本殿に祀る神社として、滋賀県草津市に伊砂砂神社があり、主祭神として石長比賣命(石長比売命)、「寒川比古命(サムカワヒコノミコト)」「寒川比女命(サムカワヒメノミコト)」「伊邪那岐命(イザナギノミコト)」「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」の五神を祀っている。雲見浅間神社と大室山浅間神社に石長比売命のみが祀られているのは、富士山の木花之佐久夜毘売命と対峙して祀られているものである。この静岡県伊豆地方では、醜いために邇邇芸命に遠ざけられた石長比売命に同情して、石長比売命の化身である大室山に登って木花之佐久夜毘売命の化身である富士山を褒めると、怪我をするとか不漁になるなどの俗信がある。伊都国の中心とされる福岡県糸島市三雲の細石神社には、妹の木花之佐久夜毘売命と共に祭神として祀られている。貴船神社(京都府京都市左京区)の結社では石長比売命は、縁結びの神として祀られている。筑波山(茨城県つくば市)の月水石神社でも石長比売命が祀られ、石長比売命が歿したとされる磐座が祀られている。宮崎県西都市の銀鏡神社では、石長比売命が鏡に映った自分の醜い容姿を嘆くあまり、遠くに投げたと伝えられる鏡が御神体として祀られている。

出典:
Wikipedia

作者ひとこと:
石長比売命のデザインは、この石長比売命の顔が醜いと言われているので、顔を覆いで隠した女神の姿に描きました。

2021年6月18日金曜日

「木花之佐久夜毘売命」


木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメノミコト)<木花咲弥姫命、神阿多都比売、豊吾田津媛命、神吾田鹿草津姫命、許乃波奈佐久夜比売命、木花咲夜姫、木華開耶姫、木花之開耶姫、木花開耶媛命、神阿多都比売、神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫、鹿葦津姫、桜大刀自神、身島姫神、酒解子神 等>

日本神話(「日本書紀」「古事記」の記紀神話)に登場する女神。神話によると木花之佐久夜毘売命は、日向に降臨した、「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」の孫「邇邇芸命(ニニギノミコト)」と、笠沙の岬で出逢い、邇邇芸命から求婚される。木花之佐久夜毘売命の父である「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」はそれを喜んで、木花之佐久夜毘売命と、その姉である「石長比売命(イワナガヒメノミコト)」を共に、邇邇芸命に差し出したが、邇邇芸命は醜い石長比売命を送り返し、美しい妹の木花之佐久夜毘売命とだけ結婚した。大山津見神はこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのは石長比売を妻にすれば天津神の御子(邇邇芸命)の命は岩の様に永遠のものとなり、木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。木花之佐久夜毘売だけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花の様に儚くなるだろう」と告げた。それで、その子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。その後、木花之佐久夜毘売命は一夜で子を身籠るが、邇邇芸命は国津神の子ではないかと疑った。その疑いを晴らすために、木花之佐久夜毘売命は誓約をして産屋に入り、「天津神である邇邇芸命の本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放って、その産屋の中で無事に三柱の子を産んだ。火が盛んに燃えた時に産んだ子を「火照命(ホデリノミコト)」、火が弱くなった時の子を「火須勢理命(ホスセリノミコト)」、火が消えた時の子を「火遠理命(ホオリノミコト)」という。この中の火遠理命の孫が初代天皇の「神武天皇(ジンムテンノウ)」である。木花之佐久夜毘売命の本名である「神阿多都比売(カムアタツヒメ)」の「阿多」は鹿児島県加世田市から野間半島にわたる地域、また薩摩国阿多郡(鹿児島県西部)にちなむ名で、木花之佐久夜毘売命の別名である「神吾田鹿葦津姫(カムアタカアシツヒメ)」の「鹿葦」も薩摩の地名であるという「神阿多都比売」の名義は「神聖な、阿多の女性(巫女)」とされ、「木花之佐久夜毘売」の「木花」は「桜の花」、「之」は格助詞、「佐久」は「咲く」、「夜」は間投助詞、「毘売」は「女性」と解し、名義は「桜の花の咲くように咲き栄える女性」と考えられる。なお桜は神木であり、その花の咲き散る生態によって年穀を占う木と信じられた。神名は咲くことを主にすれば「木花之佐久夜毘売」となり、散ることを主にすれば「木花知流比売(コノハナチルヒメ)」となるとされる。木花之佐久夜毘売命は、富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)と、配下の日本国内約1300社の浅間神社に祀られている浅間神社の他、安産や子育ての神として子安神社(皇大神宮所管社、東京都八王子市、千葉県旭市など)に、「酒解子神(サカトケコノカミ)」として梅宮大社(京都府京都市右京区)に、また、伊都国(いとこく)の中心とされる福岡県糸島市三雲の細石神社(さざれいしじんじゃ)にも姉の石長比売命と共に祀られている。

出典:
Wikipedia

作者ひとこと:
木花之佐久夜毘売命のデザインは、名前にちなんだ桜の花が、頭に付けている笠、身に着けている衣、手にしている扇までについている姿の女神に描きました。

2021年6月17日木曜日

「保食神」


保食神(ウケモチノカミ)

日本神話に登場する神。保食神は「古事記」には登場せず、「日本書紀」の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。この保食神は、神話での記述内容から女神であると考えられる。神話によると、高天原を統べる主宰神で、太陽の女神である「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」は、弟神で月の神である「月夜見尊(ツクヨミノミコト)」に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出した。そして、それらを並べて月夜見尊をもてなした。だが、月夜見尊は「汚らわしく、卑しい。どうして口から吐き出したものを私に食べさせようとするのか」と怒り、剣を抜いて保食神を斬り殺してしまった。そして月夜見尊は天に帰って、天照大御神に詳細に報告した。それを聞いた天照大御神は激しく怒って、月夜見尊に向かって「汝は悪しき神だ。もう会わない」と言った。こうして、今まで共に天にあった天照大御神と月夜見尊は離れて暮らすようになり、それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。天照大御神が保食神の所に「天熊人(アメノクマヒト)」を遣すと、保食神は死んでいた。その保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大御神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとして、これらを田畑の種とした。この月夜見尊と保食神の神話と同様の神話が古事記では、「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」と「大気津比売神(オオゲツヒメノカミ)」の神話となっている。よって保食神は、この大気津比売神と同一神とされる事もある。また保食神は、同じ食物神である「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られている事もある。保食神の神名の「ウケ」は、宇迦之御魂神の神名の「ウカ」と同源で、「食物」の意味である。また保食神は、食物神というだけでなく、「頭から牛馬が生まれた」という事から、牛や馬の神ともされる。東日本に多い駒形神社では、馬の神として保食神が祀られており、更に「頭から馬」という事で「馬頭観音(バトウカンノン)」とも同一視されている。

出典:
Wikipedia
図解日本神話(新紀元社)

作者ひとこと:
保食神のデザインは、馬の様な頭を持った女神の姿に描きました。

2021年6月16日水曜日

「一言主神」


一言主神(ヒトコトヌシノカミ)

日本神話(「日本書紀」「古事記」の記紀神話)に登場する神。一言主神は、「古事記(712年)」の下つ巻に登場するのが初出である。それによると460年(雄略天皇4年)、雄略天皇(ユウリャクテンノウ)が葛城山へ鹿狩りをしに行った時、紅紐の付いた青摺の衣を着た、雄略天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見付けた。雄略天皇が、その相手に名を問うと、相手は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。雄略天皇は恐れ入り、弓や矢の他、官吏達の着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、雄略天皇の一行を見送った、とある。少し後の720年に書かれた「日本書紀」では、雄略天皇が一事主神(一言主神)に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだ、と書かれていて、一言主神と雄略天皇が対等の立場になっている。時代が下がって797年に書かれた「続日本紀」の巻25では、高鴨神(一言主神)が雄略天皇と獲物を争ったため、雄略天皇の怒りに触れて土佐国(現在の高知県)に流された、と書かれている。これは、一言主神を祀っていた氏族・賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている(ただし、「高鴨神」は、現在高鴨神社に祀られている「迦毛大御神(カモノオオミカミ)」こと「味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネノカミ)」の事であるとする説もある)。更に、822年の「日本霊異記」では、一語主(一言主神)は役行者(エンノギョウジャ)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国(現在の静岡県伊豆半島、東京都伊豆諸島)に流されたのは、役行者に不満を持った一言主神が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主神を呪法で縛り、「日本霊異記」執筆の時点でもまだそれが解けていないとある。また、能の演目「葛城」では、一言主神は女神とされている。葛城山麓の奈良県御所市にある「葛城一言主神社」は全国の一言主神社の総本社となっている。地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされ、「無言まいり」の神として信仰されている。この他、「続日本紀」で一言主神が流されたと書かれている土佐国には、一言主神を祀る「土佐神社」があり、土佐国一宮になっている。ただし、この土佐神社に祀られているのは味耜高彦根神であるとする説もあり、現在、土佐神社では一言主神・味耜高彦根神の両神ともが主祭神とされている。また、一言主神は名前の類似から、「大国主神(オオクニヌシノカミ)」の子の「事代主神(コトシロヌシノカミ)」と同一視される事もある。

出典:
Wikipedia

作者ひとこと:
一言主神のデザインは、山の精霊や山の神をイメージした姿に描きました。これが本当の姿で、この姿から人間など様々な姿に変化出来るイメージです。

2021年6月15日火曜日

「アリエ」


アリエ

日本に伝わる妖怪の一種。アリエは、明治9年(1876年)6月17日の「甲府日々新聞(山梨日々新聞)」や、その記事を転載した「長野新聞」で報じられた妖怪である。ある時から肥後国(現在の熊本県)青鳥郡の海に4本脚の奇怪な怪物が現れ、夜になれば往来へ出て鱗を光らせながら歩く様になった。この怪物は通る者を呼び止めるが、誰一人として寄りつこうとはせず、やがてその道を通る人は絶えてしまった。この噂を聞いた旧熊本藩の士族の柴田某という者が、この怪物の正体を見届けようと出かけ、遭遇したこの怪物を咎めると、怪物は「我こそは海中鱗獣の首魁にて名はアリエ」と名乗った。更にアリエは、自分には吉凶を見抜く術を持っている、と語った上で「今年から6年間は豊年が続くが、6月からはコロリに似た病気が流行して、世の人々は六分どおり死に失せてしまう。しかし身共を図にして、それを朝な夕なに信心すれば、その難を避ける事が出来る」と告げると、海中に姿を消したという。この話を受けてアリエの絵を稼業もなげうって信心する人が出たという話を、出雲国(現在の島根県東部)の船頭が新潟県で語ったと、山梨日々新聞は報じた上で「アリエと称する図を家々で信心する者が出た地方があるらしいが、この様な行動は迷信である」とも書いている。肥後国にアリエが出現したとされるこの話は、登場する単語などの類似性から「アマビコ」、「アマビエ」に類するものであると、湯本豪一(ゆもと こういち)が指摘しており、似た内容は「海出人(ウミデビト)」などにも見られる。明治時代前期にも同様な瓦版の類が周期的に出回っていた例の一つであると見られている。また出雲国の船頭達が、このアリエの図についての話を新潟の地で語った、という箇所については、当時の物流を担っていた北前船の航路における往来を踏まえたものと見られ、当時の人々が自然にイメージ可能な伝播経路であると言えるが、新聞記事にあるように、この箇所自体も「アリエの話」として一括に語られていたと見れば、「アリエの絵を稼業もなげうって信心する人」が出たという話も、事実では無く噂の中でのものと考えられよう明治9年9月30日の長野新聞にもこのアリエについての記事が引用されているが、長野新聞は先立つ同年6月21日の紙面に、肥後国青沼郡に出た「尼彦入道(アマビコニュウドウ)」という妖怪の図を既に報じており、アリエについて掲載した6月30日の紙面では「青鳥郡」も「青沼郡」も共に肥後国・熊本県に実在しない郡である点を強調して、内容そのものが妄説であるとして、アリエ・尼彦入道のどちらについても否定している。江戸時代の同様な記事を取り扱った瓦版とは異なり、文明開化の時代・新聞の読者層には合わないものであると締めくくるかたちの文章は、明治時代の新聞記事での特徴でもある。

出典:
Wikipedia
[妖怪図鑑]新版TYZ

作者ひとこと:
アリエのデザインは、頭に長い頭髪を生やした半獣半魚の様な姿の妖怪に描きました。

2021年6月14日月曜日

「アマビエ」


アマビエ

日本に伝わる妖怪の一種。アマビエは、弘化3年(1846年)4月中旬と記された瓦版に書かれている妖怪である。弘化3年、肥後国(現在の熊本県)の海で、毎夜何か光るものがいるので、人々は不審に思っていた。そこで、ある役人が、この毎夜海中で光るものの所へ、その正体が何であるか調べに行ってみると、自らを「アマビエ」と名乗る化け物が出現した。このアマビエが役人に「当年より6ヶ月は豊作となるが、もし流行病が流行ったら、人々に私の姿を写した絵を見せるように」と告げて、再び海中へと去って行った。驚いた役人は早速、そのアマビエの姿を絵に描き、江戸へと知らせたという。瓦版には、髪の毛が長く、嘴を持った人魚の様なアマビエの姿が描かれ、この絵は、アマビエに出会った肥後の役人が描いたアマビエの絵の「写し」であるという。このように、病気や豊凶の予言をし、自分の姿を描いた絵姿を持っていれば災禍などの難から逃れる事が出来るので、自分の姿を人に描かせて、人々にこれを広めよというものは、「件(クダン)」や「クダ部(クダベ)」、「人魚(ニンギョ)」や「神社姫(ジンジャヒメ)」、「尼彦入道(アマビコニュウドウ)」、「豊年亀(ホウネンガメ)」など、似たようなケースが全国各地に伝わっている。湯本豪一(ゆもと こういち)の「明治妖怪新聞」によれば、このアマビエは「アマビコ」の事ではないかという。アマビコは瓦版や絵入り新聞に見える妖怪で、「あま彦」「天彦」「天日子」などと書かれる。このアマビコの記事を別の瓦版に写す際、間違えて「アマビエ」と記してしまったのだというのが湯本説である。

出典:
Wikipedia
ヴィジュアル版謎シリーズ 日本の妖怪の謎と不思議(Gakken)
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
アマビエのデザインは、嘴を持った、全身鱗に覆われている人魚の様な姿に描きました。

2021年6月13日日曜日

「生邪魔」


生邪魔(イチジャマ)

沖縄県での生き霊の総称。または、恨み、憎しみをおぼえた相手を意識的に呪詛し、その人に危害を加える反社会的呪術。また、この呪術を行使する霊的能力を持つ者。また、この生き霊を他の人間に取り憑かせる呪法、呪者、その呪者の家系の呼称でもある。生邪魔は、邪術、邪術師の概念に相当し、人々に恐れられた。生邪魔の呪者は大部分が女性であるとされ、非社交的、むら気、嫉妬深い、強欲などの極端な性格を持ち、なんらかのきっかけで、他人を恨んだり、他人の持ち物を欲しがり嫉妬して、その恨んだり、嫉妬した相手に呪詛をかけるとされる。この時には生邪魔の呪者しか知らない、呪詞や道具を使い、相手の身体各部を意のままに痛めつけたり、時には死亡させる事も出来る、と言われている。一般的な生き霊と同様、生邪魔は生きている人間の体から霊魂が抜け出て、憎悪の対象となる者を苦しめるものである。生き霊の生邪魔は本人と同じ姿をとり、相手に贈り物をする。贈り物の内容は芭蕉、ニンニク、ラッキョウといった作物などで、これを受け取った者は生邪魔に取り憑かれる羽目になり、原因不明の病気に冒され、やがては死に至る。生き霊を他の人間に取り憑かせる呪法、その呪法を使う人間、その人間の家系もまた生邪魔と呼ばれる。呪法の際には生邪魔仏(イチジャマブトキイ)と呼ばれる人形に祈ることで生邪魔を相手に憑ける事が出来るという。一説によると、この生邪魔仏を鍋で煮ながら、呪う相手の病気にさせたいと思う箇所を呪文の様に唱えるという(例えば呪う相手を頭痛にさせたければ「頭、頭、頭……」と唱える)。また、道具や呪法を使わなくても、相手に憎悪を抱いただけでも生邪魔が取り憑くともいう。この生邪魔による病気を治すには「ユタ」と呼ばれる巫女の祈祷が必要となる。ユタは病人の親指を縛り、釘を打つ仕草の祈祷により、生邪魔を相手へ送り返すという。また、病人を前にして、その人の悪口を言いまくる事で、生邪魔を追い払う事が出来る、ともいう。また生邪魔を取り憑かせる対象は人間以外の動植物にも及び、牛、馬、豚などの家畜、畑の作物までにも損害が及ぶ事があったという。生邪魔の能力は母から娘へと女系を辿って伝えられる事が多く、生邪魔の能力を持つ者の多くは鋭い目つきをしている。この生邪魔の家系の者と結婚する事は避けられたと言われているが、生邪魔の家系には美男美女が多い事から、そうとは知らずに恋に落ち、悲しい結末を辿る事が多かったという。生邪魔の呪詛を解くには、生邪魔に悪口を言う、豚糞などを投げて儀礼的に汚す、ユタなどに抜霊儀礼を依頼するなどがある。

出典:
Wikipedia

作者ひとこと:
生邪魔のデザインは、全身に「呪」の字が書かれている、霊魂の姿に描きました。デザインとしては、生き霊の生邪魔で、イラストでは紙の様にペラペラな体である、というイメージです。

2021年6月12日土曜日

「センポクカンポク」


センポクカンポク

日本に伝わる妖怪の一種。センポクカンポクは、越中国の東礪波郡利賀村(現在の富山県南砺市)に伝わる妖怪である。このセンポクカンポクは、人間の様な顔をした、大きなヒキガエルの姿をしている。センポクカンポクは死者が出た家の、その家の死者の掛けむしろのもとや下に現れる。その死者が死後から一週間経つと、センポクカンポクは今度は家の表口、大戸の外に出て番をする。センポクカンポクはその後三週間の間はその家にいるが、四週間経つと、センポクカンポクは死者の霊を導いて墓場へと行く。このセンポクカンポクは、死者の霊魂の番をし、その道案内をする役目を持つ者と考えられている。南砺市付近では、昔話を子供達にする時、その昔話によくセンポクカンポクが登場したという。また、この地方では大きなカエルの事を「カサゴットの神」、または「テンテンゴットの神」と呼び、人が死に瀕している時にその名を呼ぶと、この神の妖術によって助かる、という言い伝えもある。「カサ」や「テンテン」は疣や瘡などの出来物を意味するらしく、「ゴット」はカエル(特に蝦蟇)を意味する方言である。また、富山県氷見郡では、立山に登ろうとすると大きな蝦蟇が手を繋ぎ道を遮るという言い伝えがあり、立山は死者が集まるとされたので、これも霊と蝦蟇の結びつきが強い事を示していると考えられている。

出典:
Wikipedia
ヴィジュアル版謎シリーズ 日本の妖怪の謎と不思議(Gakken)

作者ひとこと:
センポクカンポクのデザインは、頭に死装束の天冠を着けたヒキガエルの姿の妖怪に描きました。

2021年6月11日金曜日

「布がらみ」


布がらみ(ヌノガラミ)

日本に伝わる妖怪の一種。布がらみは、青森県三戸郡田子町長坂に伝わる妖怪である。昔、長坂に布沼という大きな沼があった。この布沼には「布がらみ」という奇怪な主が棲むと言われ、人々から怖れられていた。この布がらみは、布に化けて沼の畔の垣根にかかり、人がそれを見て、取ろうとすると、たちまち伸びて人に絡みつき、そのまま沼に引き込んだ。この布がらみに妻と娘を沼に引き込まれた男が、この主を退治しようと決心し、神の御告げによって、鳩の卵を1つ持って布沼に出かけた。男が沼の畔で一心に神に祈っていると、沼がにわかに音を立てて水がざわめいた。その瞬間、男が鳩の卵を割って沼に投げ込むと、大音響とともに、布がらみの死体が浮かび上がったという。村上健司編、水木しげる画「日本妖怪大事典」によれば、沼の主という事から、蛇の様なものではないかと推測している。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
布がらみのデザインは、反物の様な布の様な体の、大蛇の様な姿の妖怪に描きました。

2021年6月10日木曜日

「一反木綿」


一反木綿(イッタンモメン)

日本に伝わる妖怪の一種。一反木綿は、鹿児島県肝属郡高山町(現在の肝付町)に伝わる妖怪である。約一反(長さ約10.6m、幅約30㎝)の木綿の布の様なものが夕暮れ時や夜間にヒラヒラと飛んで、人間を襲うものである。人間に襲い掛かると、その人間の首に巻きついたり、顔を覆ったりして窒息死させてしまう。また時には、巻かれた反物の様な状態でクルクル回りながら素早く飛来し、人間を体に巻き込んで空へと飛び去ってしまう事もあるという。また、ある男が夜に家路を急いでいたところ、白い布が飛んで来て、男の首に巻きついて来た。男が脇差しで、この布を斬り付けたところ、その布は消え、男の手には血が残っていた、という話もある。この一反木綿の出没が伝えられている地方では、子供が遅くなるまで遊んでいると「一反木綿がでるよ」と言って戒める風習もあったそうである。また、肝付町では一反木綿がよく現れると言われる神社があり、子供達がその神社の前を通るときには、上空を舞う一反木綿が最後尾の子供を襲うと信じられていたため、子供達は誰よりも先に走って通り抜けたという。この一反木綿の出現時は夕暮れ時とされるが、かつてこの時間帯は親が農作業などで一日中働いており、子供に目を配る事が出来ない事から、一反木綿の話をして、遅くまで遊んでいては危ないと戒めていたものと見られている。また、この伝承地では土葬の際に木綿の旗を立てて弔う風習があり、この旗が風で飛んで空を舞う事もあったであろう事から、これが木綿の布の妖怪という伝承に繋がったものとも推測されている。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
一反木綿のデザインは、多数の目と口がある布の姿の妖怪に描きました。多数の目と口で、この一反木綿の人間を襲う凶暴さを表現しています。

2021年6月9日水曜日

「モシリシンナイサム」


モシリシンナイサム

北海道を主な居住圏とする民族であるアイヌに伝わる妖怪の一種。モシリシンナイサムは、その体に白と黒の斑模様のある、馬ほどの大きさの妖怪で、村外れの湿地帯などに現れる。モシリシンナイサムの姿や足跡を見てしまった者は長生き出来ず、その一生を不幸な人生で過ごす羽目になってしまう。またモシリシンナイサムは、様々な動物に姿を変えて人間をつけ狙うとも言われている。例えば、路傍に大きな牡鹿がいたと思ったら、その牡鹿が一瞬にしていなくなってしまう。そんな時はモシリシンナイサムに狙われている証拠だという。あるアイヌが、川の砂地に人が集まっているのを見て、そこに行ってみた。彼らは「ここに馬の足跡があるが、これは新冠(にいかっぷ)の牧場から来たものだろうか」と言った。見てみると確かにそれは馬の足跡であるように見えたが、ここに馬が来るはずがない。これはモシリシンナイサムの足跡だろうと彼は言った。その足跡は川下に向かって行っていた。このアイヌは、この足跡を見たためか、その年は悪いことばかりが起こったという。また、ある人が十勝(とかち)でモシリシンナイサムを追いかけて、この妖怪を仕留めた。と思ったら馬ほどの大きさもあったモシリシンナイサムは、影も形もなくなっていた。その後、この人の五人兄弟は残らず死んでしまった。また、以下の様な伝説もある。大昔、「イタチの神」が天から降りて来て地上に住もうとした時、古くから世界の端に住んでいたモシリシンナイサムがイタチの神に力比べを申し込み、いきなりモシリシンナイサムはイタチの神を火の中に投げ込んだ。モシリシンナイサムが喜んでいると、焼け死んだはずのイタチの神が現れて、逆に今度は、イタチの神がモシリシンナイサムを火の中へと投げ込んだ。モシリシンナイサムは火の中から逃げようとしたものの、イタチの神に阻まれて、そのまま焼け死んだ。その灰からは、猫や狐といった動物が誕生した。こうした経緯で狐は悪の心を持ち、人間を化かすのだという。「モシリシンナイサム」という名前の「モシリ」は「国」、「シンナイ」は「別の」、「サム」は「側」を意味し、「他の世界から来る者」または「世界の乱入者」という意味で付けられた名前である。

出典:
Wikipedia
神魔精妖名辞典
幻想動物の事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
モシリシンナイサムのデザインは、体に斑模様のある魔物の姿に描きました。体の半身がモヤか霧の様になっているのは、このモシリシンナイサムが様々な動物に自由自在に変化できるイメージを表しています。

2021年6月8日火曜日

「瀬織津比咩神」


瀬織津比咩神(セオリツヒメノカミ)<瀬織津姫、瀬織津比売、瀬織津媛>

日本神道における女神の一柱で、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである「大祓詞(おおはらえのことば)」に登場する。神名の「セオリ」は「瀬下」を意味し、瀬を降りた場所に坐す女神であり、世の罪穢を祓い清め、凶事を除き去る女神であるとされる。瀬織津比咩神は、人の穢れを早川の瀬で浄める女神とされ、その後、諸々の禍事・罪・穢れを瀬織津比咩神は、川瀬の流れに乗せて大海へと運ぶのだという。この瀬織津比咩神は、「祓(はらえ、はらい。神道において罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術である)」を司る四柱の神々「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」の一柱であるとされる。また、瀬織津比咩神は祓の神である他に、水神や瀧神、川神でもあり、九州以南では海の女神であるともされる。更に、瀬織津比咩神は治水神としての特性もあるという。江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師「本居宣長(もとおり のりなが)」は、瀬織津比咩神を「大禍津日神(オオマガツヒノカミ)」、「八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)」と同神であると説いている。

出典:
神魔精妖名辞典
Wikipedia
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
瀬織津比咩神のデザインは、体が水の泡で出来ている女神の姿に描きました。この水の泡に禍事・罪・穢れを包んで大海へと運ぶイメージです。

2021年6月7日月曜日

「亥の子」


亥の子(イノコ)

亥の子は、日本で信仰されている民俗的な田の神である。猪が一度に12匹の子供を生むといわれているところから、多産の神として、さらに農業と結びついて豊穣の神として祀られるようになったらしい。日本では、秋(旧暦10月)の亥の日に、亥の子祭りが行われる。これは、農業神の亥の子が田んぼから離れて山へ帰る儀式である。この儀式は、平安時代にその始まりが見受けられる古いものである。「蜻蛉日記」(藤原道綱母作)にも「当帝(円融天皇)の御五十日にゐのこのかたをつくりたりけるに」とある。また、一部地域では、春に亥の子祭りが行われるところもある。こちらは、山の亥の子が降りてきて、田んぼに住居を移すことを表している。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
亥の子のデザインは、首に注連縄を付けている瓜坊の姿の神に描きました。

2021年6月6日日曜日

「うんなん神」


うんなん神(ウンナンガミ)

日本で信仰されている神。日本は川や池沼が多く、そうした水辺に色々な水に関する神様が祀られている。うんなん神もそうした神霊で、「ウンナン」とは神の使いのウナギの事である。うんなん神の信仰は、東北地方の宮城県、岩手県を中心に広がっており、その大きな特徴として、古くから田の神として信仰されてきた「ホウリョウ神(法領神)」とうんなん神は兄弟神とされ、場所も近くに祀られる事が多い。ということは、うんなん神は田の神とも血縁関係といってもいいような、共通した機能を持っていると考える事が出来る。また、うんなん神が祀られている場所は、多くが湧水池、田んぼの近くの川や用水の側であったり、あるいは落雷があった跡などである。そうした要素から考えて、うんなん神の基本的な神格は水の神、田の神、雷神ということになる。トータルに見れば、農作物の成育に関係する農業神的性格を持っているということだ。ウナギは、縄文時代から食べられていた事が分かっているし、「万葉集」にも、夏痩せに効く栄養豊富な食物と考えられていた事を示す歌が読まれている。精力がつくとして生殖器崇拝と結び付き、夫婦円満や子宝などの信仰(虚空蔵菩薩信仰の一形態)の対象にもなっている。とにかく、その独特な姿や生態の不可思議さから、古くからなんとなく神秘的な目で人間に見られてきたのである。特に農民の間では、ウナギが洪水のたびに現れるので、これは洪水の権化なのではないかと考えられた。実は、川の氾濫後の水の引き際に、ウナギが田んぼに取り残されるのであるが、人々にとっては、恐ろしい災害をもたらす神の使いの様に思えたのだ。そこで、ウナギを神様として祀り、洪水を制御してもらおうという気持ちが生まれたのである。人々のそうした切実な思いに応じて、ウナギを神使とする虚空蔵菩薩信仰が結び付き、修験者や民間宗教家によってうんなん神として祀られる様になったと考えられている。うんなん神にまつわる伝説も、水の神の化身である竜や蛇、洪水、落雷といった農作に纏わるものが多い。特にその信仰の中心にあるのは、洪水の被害を回避し、救済してほしいと願う農民の願望である。なお、ウナギが虚空蔵菩薩の使いであると説かれる事から、ウナギを食べないという禁忌もあり、それに付随して、もしもそれを破ったりすると目がつぶれるなどの伝承もある。

出典:
日本の神々 多彩な民俗神たち(新紀元社)

作者ひとこと:
うんなん神のデザインは、龍の角の様な長い2本の触角が生えている鰻の様な姿の神に描きました。

2021年6月5日土曜日

「精大明神」


精大明神(セイダイミョウジン)

日本で信仰されている神。精大明神は、蹴鞠の神である。この精大明神を祀る平野神社(滋賀県大津市松本)の社伝によれば、「後鳥羽上皇(ごとばじょうこう。在位1183年~1198年)」の時代、「大納言成道(だいなごんなるみち(成通))」という蹴鞠の名人がいた。この名人が千日鞠を志し、1000日の間、休まず蹴鞠をする千日行をした。その千日鞠の成就の朝、頭に金の鞠の紋を現した猿の姿をした童子形の神霊の姿を見たという。そして、その神霊の加護により、見事成し遂げたのである。この精大明神の神名の「精」とは、鞠を蹴るときのかけ声に由来する。また、この精大明神が猿の姿をしていたことから、精大明神は「猿田毘古神(サルタビコノカミ)」が垂迹した姿であるとされている。また、蹴鞠会は申の日の申の刻(午前4時)から始めるのが正式なルールとされている。現在では蹴鞠は流行のスポーツとはいいがたいためか、精大明神は球技全般の守護神として信仰されるようになってきている。特に「ボール(球体)を蹴る」ことで共通し、近年隆盛しつつあるサッカーの愛好者達からの信仰も増えているという。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)
Wikipedia(「藤原成通」のページ)

作者ひとこと:
精大明神のデザインは、二つの鞠の上に乗っている狩衣を着た小猿の様な姿の神に描きました。

2021年6月4日金曜日

「油日大神」


油日大神(アブラビノオオカミ)

日本で信仰されている神。油日大神は、油売りの守護神ともされている神である。古来より油は食用や燃料として利用されてきた。しかし、昔は油の種類は荏胡麻か菜種の油がほとんどで、価格も高かった。その用途も食用よりも照明用燃料としての割合が高く、灯芯(とうしん。灯明皿の油を燃やすための芯)を三本使う嫁は贅沢者といわれ、時には離縁されることすらあったという。油日大神は、そんな高価な品物である「油」を扱う油売り達からの信仰を集めた神である。この油日大神を祀る油日神社(滋賀県甲賀市甲賀町油日)は、「近江(現在の滋賀県)」、「伊勢(現在の三重県の大部分)」、「伊賀(現在の三重県西部)」の三国の境に位置する「油日嶽(あぶらびだけ)」の麓に位置している。山麓に存在する多くの神社と同じく、油日神社の祭神である油日大神は、本来は、この油日嶽を神格化した神であったと思われる。それが、その神名に「油」が、そして「火」に通じる「日」が含まれていたことから、油売りの守護神として、油売り達からの信仰を集めるようになったのだろう。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
油日大神のデザインは、頭に油が入っていて火が灯っている灯明皿をのせており、雲に乗っている姿の神に描きました。

2021年6月3日木曜日

「作神」


作神(サクガミ)

日本で信仰されている神。作神は稲作の神であり、農作の守護神であるともされている。稲そのものの霊である「稲霊(イナダマ)」と、農作物を守り育てる豊穣神の両方が作神として祀られる。このため様々な神が作神として崇拝される。「荒神(コウジン)」、「恵比須(エビス)」、「大黒天(ダイコクテン)」などが作神として祀られている地域もあるし、「亥の子(イノコ)」、「丑の日様(ウシノヒサマ)」、「三祓様(サンバイサマ)」などと呼ばれるところもある。基本的には、作神は春になるとそれまでの御座所(山の中か、屋敷の中)から出て、田に降りてきて、秋になると田から上がって元の場所に戻る。長野県では案山子が作神の姿だと考えて、10月10日には案山子に蓑笠を着せて土間に据え、その案山子に餅や御馳走を供える。京都など西日本では作神は「ツクリガミ」といい、正月7日早朝に降って来られる神といい、冬には山の神、春から秋にかけては田の神になるという。東北地方では作神は「農神(ノウガミ)」ともいい、3月16日に降り、9月16日に天上する神といわれ、この作神は山の神でもある、とも言われている。また養蚕の神である「オシラサマ」も作神と関係が深く、作神と同じ時期にオシラサマも天と地上を昇り降りされると言われている。岩手県では農神様(作神)は、穀物の種を持って天から降って来られると言われ、早朝に木の葉を焚いて合図の煙を上げる所がある。また、この作神は、旧暦の2月5日に餅をつく杵の音を聞いて降って来て、10月15日に杵の音に送られて帰る神であるとも言われている。また作神には、目や手が悪いという伝承があり、荒神や「事の神(コトノカミ)」との関連が考えられる。また、作神がとても醜いという伝承からは、「竃神(カマドガミ)」との関連も疑われる。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)
コトバンク

作者ひとこと:
作神のデザインは、頭の左右に稲穂を角髪の様にして付けている神の姿に描きました。イメージとしては、稲の霊である稲霊が進化、または成長すると作神に変化する感じです。

2021年6月2日水曜日

「オコナイ様」


オコナイ様(オコナイサマ)

日本で信仰されている神。オコナイ様は、東北地方、特に山形県と岩手県に分布する男女一対の神で、「オクナイ様」ともいう。通常は、単なる木(または竹)の棒に紙製の衣を着せただけが御神体であるが、聖徳太子(ショウトクタイシ)や阿弥陀如来(アミダニョライ)の像に服を着せたものもある。オコナイ様の伝承は検地に関係したものが多く、元々は境の神だった事がうかがわれる。また、よく祀られたオコナイ様が農作業を手伝ったという伝承もあり、こちらは田の神、家の神の性格の表れである。このオコナイ様は、主に家庭の主婦によって祀られる神で、稲刈りの時期になると、オコナイ様を田の風に当てると称して、女達が御神体を背負って村を歩き、勧進(寄付)を募る。そして集めた金で、巫女を呼んで祈ってもらい、オコナイ様の衣更えをする。家々の女達が集まって、村や家族のことを占ってもらうのだ。こうして祀られたオコナイ様は、出雲大社の末席に並ぶという。佐々木喜善「遠野のザシキワラシとオシラサマ」では、山形のオコナイ様とは「御宮内様」の事であると記している。その山形の御宮内様とは、宮内の者が六尺の竿で検地をした筈が、実は六尺三寸の竿であった為、削られると思った土地が助かった。農民達が喜びの余り、その六尺三寸の竿を細切れにして、各家で神として祀ったのがオコナイ様である、とある。岩手県遠野市では、ある夜、南澤の某の家に盗人が入り、座敷から大きな箱を背負い出そうとした。しかし盗人はオクナイ様に取り押さえられて動けなくなった。夜が明けて家の者が起きてみると、オクナイ様は神棚から降りて、盗人の荷物の上に乗っていたという。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)
怪異・妖怪伝承データベース
不思議空間「遠野」-「遠野物語」をWebせよ!-

作者ひとこと:
オコナイ様のデザインは、衣で体を覆っている地蔵菩薩の様な仏にも見える神の姿に描きました。

2021年6月1日火曜日

「稲霊」


稲霊(イナダマ)

日本で信仰されている神、または精霊。稲霊は、稲に宿った魂の事である。稲刈りのあとで、その稲穂を祀ったものが「稲霊」である。稲を植えてから刈り入れて米にするまで、稲穂を祀る祭礼は何度も行われる。まず、初田植えのときに「サビラキ」という祭りを行う。これは、米や黒豆を柿の葉に包んで、苗代の水口に置く。次に、初穂(最初に出た稲穂)を村の神や家の神などに捧げる「ホガケ」が行われる。ただし、この時の稲穂は神への供え物であり、御神体ではない。稲刈りをした後の祭りが「カリゴメ」であり、やはり稲穂を祀る(稲を刈った鎌を祀るところもある)。ただし、この時の稲穂は神への供え物ではない。田の神の依り代として、稲穂を我が家に迎えるという祭りである。この時の稲穂に宿る神こそ稲霊だとされる。また、この稲霊(稲魂)は初夏の雷や稲光を受けて、雷や稲光を受けた稲霊が成長し、成長した稲霊(稲)が孕む(実る)という信仰もある。なので雷は「稲妻(いなずま。稲の夫という意味)」というのであるという。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)
コトバンク(「稲魂」のページ)
Weblio辞書(「稲魂(ウケノミタマ)」のページ)

作者ひとこと:
稲霊のデザインは、注連縄を首飾りにして、頭の左右に稲穂を角髪の様にして付けている精霊の様な姿に描きました。