自己紹介

このブログでは、僕が描いた神話や伝説などに関する絵や、その絵の解説を載せています。
(イラスト、記事の執筆:マゴラカ、ワンタ) ※2024年度より、月・水・金曜日の21時に更新していきます。

2020年2月29日土曜日

「あかなし様」



あかなし様(アカナシサマ)

日本で信仰されている神で、愛知県新城市玖老勢字小林で祀られている。あかなし様は千年以上の年を経た大蛇の神であるという。その昔、塩谷の人達が山仕事に出掛けた。そして一日、山仕事を終えて帰ってくる途中、水無沢に欅の大木が倒れているのを見かけ、その内一人の人が「おい、この欅の大木を辛灰にするといいぞ」と言い出したので、他の人達もこれに賛成し、この欅の大木を焼く事になった。辛灰というのは、欅、栗、樫などの木を焼いて作った灰の事で染め物の媒染剤として使われ、商品価値があり何よりな収入になった。そこで、この欅の大木も辛灰にしようと焼く準備をしだしたが、この欅の大木には大きな穴が空いていたので、この穴に枯木や落ち葉を詰めて、欅の大木に火を付けて帰って来た。翌朝、人々は早速、昨日火を付けて来た欅の大木のある水無沢へと向かった。そして欅の焼け具合はどうかなと思いながら、大木の側へと寄って行ってみると、欅の大木は綺麗に灰になっていた。人々は「おーい、具合よく焼け取るよ」、「そりゃあよかったな」などと言いながら、背負子に付けてきた袋を下ろして、袋に灰を詰め始めた。しかし、この灰は妙な事に生臭い匂いを発していた。更に灰の中からは何かの骨も出て来た。人々は不審に思いながらも、集めた灰を入れた袋を背負子に背負って、それぞれ家に持ち帰った。ところが、その日の晩から、辛灰を取りに行った人々に熱が出てうなされ出した。この熱が三日経っても、四日経っても治らなかったので、家の人達が心配しだし、近くの行者の所へ行って、行者にこの熱を診てもらった。すると行者は「これは古い長虫(蛇)の祟りだ」と言ったので、山から持って帰って来た辛灰を調べてみると、辛灰の中から骨が沢山出て来た。「これは鳳の窪の大蛇を焼き殺した骨だぞ」、「大変な事をしたものだ。この骨を全部集めて供養しない事には祟りが解けんぞ」と言い出し、人々は辛灰の中の骨を全部拾い集めて、その骨を石棺に入れて塩谷の一角に埋め、鳳来寺の念成坊に大蛇の供養を頼んだ。念成坊は大蛇に「浄障無垢大善神」の戒名を授け、この大蛇を丁寧に祀った。すると、あれ程うなされていた病人達はすっかり全快し、塩谷の人達は皆ほっとした。それからは、盆の15日が来ると、集落中の人がこの大蛇を祀った「浄障無垢大善神」=あかなし様の前に集まり、松明を焚き鉦を打ち鳴らしながら「鳳の窪の欅のもとに納まりて、今じゃ垢なし大明神」と唱えながら大蛇の供養をするようになった。

出典:
東三河を歩こう

作者ひとこと:
あかなし様のデザインは、大蛇の姿に描きました。年を経た古い大蛇という事で、下顎に髭が生えています。

2020年2月28日金曜日

「ヤザイドン」



ヤザイドン

日本で信仰されている神で、長崎県平戸市に伝わる民間信仰の神。ヤザイドンは藪に棲む神で、ヤザイドンを祀る祠は藪の中にあり、そこで祀られている。ヤザイドンは人に取り憑く神であるとされ、人に取り憑いて、その人に障りをなし、悪さをする神であるとされる。病気でフラフラになって歩いている人がいると、ヤザイドンがその人に取り憑く事がある。何故、病気でフラフラになっている人にヤザイドンが取り憑くかというと、病気でフラフラになって歩いている様をヤザイドンが見ていて、その様がおかしいとヤザイドンが思って、その人に取り憑くのだという。その為、家で病人が出た場合は「トビイエ」というものを作って祀るという。

出典:
怪異・妖怪伝承データベース
妖怪邸・妖堂 日記帳
神様コレクション

作者ひとこと:
ヤザイドンのデザインは、人に取り憑いて悪さをするとされているので、鬼神の様な、鬼の様な姿に描きました。

2020年2月27日木曜日

「洩矢神」



洩矢神(モリヤノカミ、モレヤノカミ、モリヤシン、モレヤシン)

日本に伝わる神の一柱で、長野県諏訪地方で祀られ、地元の長野県諏訪地方の神話に登場する神である。神話において、洩矢神は「諏訪大社」に祀られている建御名方神(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した諏訪の土着神とされ、後に建御名方神(諏訪明神)に服従し、諏訪上社の神官の一つである「神長官(ジンチョウカン)」を代々務めてきた「守矢氏(モリヤシ)」の始祖となったとされる。また洩矢神は守矢氏が祀る神である。「ミシャグジ」と同一視される事もあり、洩矢神は山の神、氏神、安産の神、国造りの神の神格のある神とされ、人々から信仰されている。諏訪地方では建御名方神(諏訪明神)は天から守屋山(モリヤサン)(長野県諏訪市と伊那市との境にある山)に天降って、そこから現地の神々を征服した神とされている。宝治3(1249)年に諏訪上社の大祝(オオホウリ)の諏訪信重から鎌倉幕府に提出された「諏訪信重解状」によると、守屋山に天降った諏訪明神は守屋大臣(洩矢神の事)の領地を手に入れる為に、藤の鎰(カギ)を持ち出し、鉄の鎰を手にした守屋大臣と引き合ったところ、諏訪明神が勝ち、負けた守屋大臣は諏訪明神に追討されたとある。この話は室町時代の延文元(1356)年に成立した「諏訪大明神画詞」にもあり、ここでは両者の武器が、諏訪明神は「藤の枝」、洩矢神の神は「鉄輪」になっている。また諏訪氏(諏訪大社の大祝、または信濃国諏訪郡の領主を司った家柄)の家系図である。「神氏系図(前田氏本)」と「神家系図(千野家本)」にも、諏訪明神が「守屋」を追い落とし、その後諏訪明神は守屋山麓に社壇を構えたという同系統の伝承が語られている。また江戸期の伝承記録における異伝では洩矢神と藤島明神(諏訪明神)が天竜川の畔で争ったという神話が伝わる。この神話では、守屋大明神(洩矢神)と藤島大明神(諏訪明神)が相争った際に天竜川の両側に立っていた藤の木を絡ませたとされる。この時、藤島大明神は、今は藤島神社(岡谷市川岸三沢)がある場所に、天竜川を挟んだ、今は洩矢神社(岡谷市川岸東橋原)のある場所に守屋大明神が陣地を構え、藤島大明神は藤島神社の藤を、守屋大明神は洩矢神社の藤を、互いの陣地に向かって伸ばし、両者の藤は天竜川の上で絡み合い、絡み合ったまま、空中に花を咲かせ、その様はまるで、大きな橋に見える程に繁茂したという。洩矢神が建御名方神(諏訪明神)に服従した後は、洩矢神は建御名方神に抵抗し続けていた諏訪の土着神「矢塚男命(ヤツカオノミコト)」と戦った神話が伝わる。矢塚男命は外来の建御名方神に敗れて降伏した洩矢神を腰抜けと見なし、自分の手下達に洩矢神を罵倒させた。洩矢神も最初は馬耳東風と受け流していたものの、矢塚男命から宣戦布告の合図として建御名方神の館に赤い矢が射ち込まれると、挑戦に応じた建御名方神と洩矢神は軍勢を率いて矢塚男命の陣営を攻撃した。油断していた矢塚男命はすっかりと攻め立てられ、矢塚男命は遂には流れ矢に当たってしまう。矢塚男命は死ぬ間際に洩矢神に謝罪し、自分の大切な娘を建御名方神に差し上げた。建御名方神は、この娘を家臣の「彦狭知命(ヒコサシリノミコト)」の元に嫁がせ、この二柱は、矢塚男命の領地に永住した。明治初期成立の「神長守矢氏系譜」によれば、洩矢神には守宅神(モリタノカミ)と多満留姫(タマルヒメ)の二柱の御子神がおり、多満留姫は建御名方神の御子神である。出早雄命(イズハヤオノミコト)に嫁ぎ、守宅神は千鹿頭神(チカトノカミ)をもうけ、守宅神と千鹿頭神は洩矢神の祭政の跡継ぎとなった。しかし千鹿頭神は後に宇良古比売命(ウラコヒメノミコト)を娶ったが、この二柱の跡を継いだのは、建御名方神の孫神である児玉彦命であるとも書かれており、そうなると守矢氏は洩矢神の祭祀の後継者ではあっても、血族的子孫ではないとも解釈出来る。しかし守矢氏は洩矢神を一族の遠祖として敬っている。また、神仏習合において洩矢神は薬師如来と習合した。

出典:
Wikipedia

作者ひとこと:
洩矢神のデザインは、洩矢神と関連のある神々、ミシャグジや諏訪明神(建御名方神)が蛇神とされる説もある為、これらの神々と関連ある洩矢神の姿も蛇神の姿に描いてみました。

2020年2月26日水曜日

「無足殿」



無足殿(ムスッドン)<無足大明神(ムソクダイミョウジン)>

日本で信仰されている神で、日本における「蛇神」信仰の一種。「無足殿」の「無足」というのは、足の無い蛇を「無足」と呼んだ事から来ている。この無足殿は鹿児島県南指宿市の尾掛で祀られている。無足殿は、その昔、大隈の古江という所から海を渡って来た蛇が尾掛の黒山に登って、そこに棲み着き、この蛇が若い娘を生贄として、毎年一人ずつ食っていたので、土地の人々はこの蛇を恐れて、神社を造り、この蛇を「無足殿」として祀ったという。

出典:
神魔精妖名辞典
怪異・妖怪伝承データベース
指宿・頴娃ジオガイド

作者ひとこと:
無足殿のデザインは、今まさに、生贄の娘を食べようと舌舐めずりをする大蛇の姿に描きました。身体の人型の模様は生贄の娘を一人食べるごとに、この模様も一つずつ増えていくイメージです。

2020年2月25日火曜日

「寄り鯨」



寄り鯨(ヨリクジラ)

日本で信仰されている神。「寄り鯨」とは、何らかの理由により、浅瀬や岩場などの海浜に打ち上がって、自力で泳いで脱出出来ない状態の鯨の「座礁鯨」の事であるが、死亡した状態で海浜などに漂着した鯨の「漂着鯨」を意味する「流れ鯨」もまた、寄り鯨と同じく信仰された。この寄り神(流れ鯨)は、その様に海浜に漂着した座礁鯨、漂着鯨を神格化した神、そして信仰である。日本では古くから座礁鯨、漂着鯨の資源利用が盛んであり、「鯨寄れば、七浦潤す」や「鯨寄れば、七浦賑わう」などと言われ、日本各地に鯨が座礁、漂着して到来した事により、その地域が思わぬ副収入を得たり、飢餓から救われたりといった伝承が多い。その様に海浜に鯨が打ち上がると、その地域が潤う為、鯨に、いつしか日本人特有の畏怖や感謝の心が発生し、寄り鯨(流れ鯨)を信仰する様になった。この「寄り鯨」の信仰は、特に能登半島、佐渡島、三浦半島に信仰が残っている。また「寄り鯨信仰」は「寄り神信仰」の起源になったとされている。また東北、近畿、九州の各地方をはじめ日本各地では鯨自体を「エビス」と呼び、漁業の神で福の神である「恵比寿」の化身や仮の姿と捉えて神格化した。寄り鯨(流れ鯨)も同様に「エビス」と呼ばれ、鯨が海浜に漂着、座礁するのは、鯨に化身した恵比寿神が身を挺して、その地域の人々に恵みをもたらしてくれたのだと理解された。しかし地域によっては逆の解釈もあり、恵比寿神の化身である寄り鯨(流れ鯨)を食べると不漁になるという伝承も存在した。

出典:
Wikipedia(「座礁鯨」のページ)

作者ひとこと:
寄り鯨のデザインは、烏帽子を被った鯨の姿に描きました。烏帽子を被っているのは、寄り鯨が恵比寿神の化身ともされているので、恵比寿神の被っている烏帽子を意識してみました。

2020年2月24日月曜日

「寄り神」



寄り神(ヨリガミ)

日本で信仰されている神。日本では古くから「寄り来る神」の信仰があり、その寄り来る神には二通りあって、「山から降り来る神」と「遠くの海上から寄り来る神」とがある。山間の人々は、死者は川を遡って山に鎮まると信じ、海辺の人々は、海上の遙か彼方に「常世国(トコヨノクニ)」の存在を思い、死者達は常世国で安住していると信じた。これらの死者達の霊=「祖霊」は時期を定めて、生前住んでいた元の故地に帰って来て、子孫からの祭りを受ける事になっており、今日でも正月と盆の年中行事として伝存している。正月に門松を立てるのは、山から祖霊を迎える為の標識であり、盆の精霊流しは、生前の故地に帰って来た祖霊を常世国へと送り返す信仰に由来する。また寄り神には祖霊とは違った信仰の側面があり、それは、浅瀬や岩場などの海浜に乗り上げた鯨「座礁鯨」などの海、または、海の向こうから辿り着いて漂着した漂着物を信仰したものである。海浜に座礁、漂着した鯨を指して「寄り神」と呼ぶ事もある。また「鯨寄れば、七浦潤す」や「鯨寄れば、七浦賑わう」などと言われ、日本各地に鯨が座礁、漂着して到来した事により、その地域が思わぬ副収入を得たり、飢餓から救われたりといった伝承が多く、特に能登半島、佐渡島、三浦半島でこの鯨の寄り神の信仰が残っている。また、海外からの漂着物(生き物の遺骸なども含む)の事を「えびす」と呼ぶ地域もあり、漁の時に、その様な漂着物を拾うと大漁になるという信仰もあり、この様に漁業の神で福の神である「恵比寿」には、寄り神としての側面もあるとされる。

出典:
Wikipedia(「えびす」のページ)
コトバンク

作者ひとこと:
寄り神のデザインは、注連縄を張った木の樽に入っている、両手に榊の枝を持った神の様な精霊の様な姿に描きました。この樽に乗って海の向こうからやって来るイメージです。

2020年2月23日日曜日

「そそう神」



そそう神(ソソウガミ)

日本に伝わる神の一柱。そそう神は長野県茅野市宮川にある神社、諏訪大社前宮(スワタイシャマエミヤ)で行われる神事「御室神事(ミムロシンジ)」の祝詞(申し立て)に登場する神である。御室神事とは、旧暦12月22日になると、諏訪郡の郷民が奉仕して神原(前宮)の一部に建築した御室(ミムロ)と呼ばれる広大な竪穴建物に大祝(オオホウリ)、神長(ジンチョウ)以下神職が参籠して「穴巣始(アナスハジメ)」と呼ばれる儀式を始める。その穴巣始の儀式の中で、御室の中に「第一の御体」と「御体三所」と呼ばれるものが入れられて神職達に奉られるが、この内「第一の御体」とは、ミシャグジ(長野県の諏訪地域を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰の神)の事、「御体三所」とは、そそう神の事であるとされる。室町時代成立の、神長による祭事の覚え書き「年代神事次第旧記」には、御体三所は「例式小へひ入」とあり、御体三所とは三つの蛇体であるとされ、小蛇に麻と紙をからめて立てられたものであるとされる。これは注連縄に紙を付け、大幣に麻を垂らすのと同じで、麻と紙をからめた小蛇を立たせたものに、そそう神の神霊を付着する為であるとされる。また旧暦12月25日の「大夜明祭」には、ハンノキの枝で出来た長さ5丈5尺(約16m)、太さ1尺5寸(約70cm)の蛇体3体と「又折(マタオリ)」(何を指すかは不明)が御室に入れられる。この蛇体は「御身体」または「ムサテ」と呼ばれており、このハンノキの枝で出来た蛇体も、そそう神であるとされる。また大小の蛇体が各々3体ずつ2日間を隔てて入れられている事について、「田中基」はこれについて、小蛇が大蛇に急成長する事で神霊である事を示した儀式的表現であると述べている。なお、蛇体が御室の中に安置されるのは、3月の卯の日までである。また御室神事関連の申し立て(祝詞)にも、そそう神が登場し、12月22日の神事と、23日の神事、25日の神事と二十番の舞、更に3月末日の神事の際に何度も繰り返される申し立てには、そそう神の出現の様が語られている。「かけまくもかしこ、常の跡に仍つて仕へまつる冬の御祭に、道の口・真志野神主(現在の諏訪市大字湖南の南真志野地区にある「のやきの原」(習焼神社周辺)を指す)のもとに、そそう神のあまわり給たれば、嬉しみ悦び給ひて、仕へまつりぬと、ぬかづか申す。道の中に、しんへいみ(不明)の本に、そそう神あまわり給ひたれば、嬉しみ悦び給ひて、仕へまつりぬと、ぬかづか申す。道の尻に有賀(アルガ)神主(現在の諏訪市大字豊田の有賀地区にある「こしき原(甑原・小敷原とも)」を指す)のもとに、そそう神あまわり給ひたれば、嬉しみ悦び給ひて、仕へまつりぬと、ぬかづか申す」。この祝詞は「道」の「口・中・尻」に、そそう神が現れ給うたので喜んで仕えるという内容である。諏訪大社上社神域の北限である有賀の「こしき原」、その次に真志野、そして大祝(最高位の神官にして現人神)が住む館「神殿(ゴウドノ)」の入口付近にある所政社(所末戸社)が、そそう神の出現の場所として特定されており、そそう神は諏訪湖の方角から神原(前宮)まで水平に現れる性質を持った神であると考えられる。またそそう神の正体については様々な説があり、女性器は「そそ」とも呼ばれている事から、そそう神は諏訪湖の方から水平的に訪れる女性的精霊と解釈される説があり、女性的精霊のそそう神と、上空から降りてくるミシャグジ(この説では、ミシャグジは男性的精霊とされる)とは対照的な存在であるとされている。この説では、御室の中に笹の付いたミシャグジ(ミシャグジの神霊を依り憑けた「御笹」)と、そそう神を象徴する蛇体が入れられるのは、ミシャグジとそそう神の2つの精霊の「聖婚」を表し、それとともに参籠する大祝は蛇との婚姻で生まれる聖なる子供である解釈する説である。またこの説では12月25日に演じられた神楽歌「総領申す」がかなり淫猥な表現になっている事から、御室神事が性的な意味を持っていたとする説である。また違う説においては、そそう神を「祖宗(ソソウ)神」、即ち、大祝の祖霊=建御名方神(タケミナカタノカミ)=諏訪明神を指すという。この説では御室神事を他界(根の国)からやって来る龍蛇の姿をしたそそう神=諏訪明神が御室に籠もる事によって、衰えた生命力(この説では諏訪明神の生命力をミシャグジとしている)を増殖させているという意味であると解釈する。またこの説によれば冬の御神渡り(冬期に諏訪湖の湖面上の氷に亀裂が走りせり上がる事)は本来、龍蛇神の祖霊神の出現の証として見られたとしている。

出典:
Wikipedia(「ミシャグジ」のページ)

作者ひとこと:
そそう神のデザインは、女性の人頭と蛇の体を持った神の姿に描きました。

2020年2月22日土曜日

「國懸大神」



國懸大神(クニカカスノオオカミ)

日本において信仰される神の一柱で、和歌山県和歌山市にある神社、國懸神宮に主祭神として祀られている。なお、國懸神宮と「日前大神(ヒノクマノオオカミ)」を主祭神として祀る、日前神宮とは、一つの境内に日前神宮・国懸神宮の二つ神社があり、この二社を総称して「日前宮(ニチゼングウ)」或いは名草宮とも呼ばれる。國懸大神は「日矛鏡(ヒボコノカガミ)」という鏡を御神体として奉祀されている神である。この日矛鏡とは、「岩戸隠れ」の神話において、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が岩窟に閉じ籠ると、世界が闇に包まれてしまった。これを解決する為に、知恵を司る神「思兼命(オモイカネノミコト)」の発案によって様々な儀式が行われるが、「石凝姥命(イシコリドメノミコト)」という女神による鏡の鋳造も、その一環であった。石凝姥命は高天原にある「天香山(アメノカグヤマ)」から採取した銅で鏡を作った。そうして石凝姥命が造った鏡「八咫鏡(ヤタノカガミ)」は三種の神器の内の一つであり、天照大御神の御神体として伊勢神宮の内宮に奉安されている。その八咫鏡を造るに先立って石凝姥命が造った鏡が二枚あり、その二枚の鏡を「日矛鏡」と「日像鏡(ヒガタノカガミ」という。その二枚の鏡の内、日矛鏡を御神体として國懸大神は奉安されており、天照大御神の御神体である八咫鏡に先立って造られた鏡である事から、その日矛鏡と、日矛鏡を御神体とする神である國懸大神は、天照大御神の前霊(サキミタマ)であるとされ、多くの人々から尊崇されている。また、國懸大神は天照大御神の別名であるともされる。しかし國懸大神が天照大御神の別名とされる事については諸説あり、國懸大神が天照大御神の別名では無いとする説では、國懸大神は、天照大御神の御神体である八咫鏡と同等のものとされる日矛鏡を御神体としている事から、國懸大神はそれだけ重要な神とされ、準皇祖神の扱いを受けていた神であるとする説がある。また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、日前神宮・国懸神宮は西の出口にある為、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたとする説もある。

出典:
Wikipedia(「日前神宮・國懸神宮」のページ)
日前神宮・国懸神宮 公式サイト
週刊 日本の神社 第90号「日前神宮・国懸神宮」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
国懸大神のデザインは、日矛鏡を御神体としている神なので、頭が鏡の様な、体に勾玉を付けた機械的な姿の神に描きました。

2020年2月21日金曜日

「日前大神」



日前大神(ヒノクマノオオカミ)

日本において信仰される神の一柱で、和歌山県和歌山市にある神社、日前神宮に主祭神として祀られている。日前大神は「日像鏡(ヒガタノカガミ)」という鏡を御神体として奉祀されている神である。この日像鏡とは、「岩戸隠れ」の神話において、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が岩窟に閉じ籠ると、世界が闇に包まれてしまった。これを解決する為に、知恵を司る神「思兼命(オモイカネノミコト)」の発案によって様々な儀式が行われるが、「石凝姥命(イシコリドメノミコト)」という女神による鏡の鋳造も、その一環であった。石凝姥命は高天原にある「天香山(アメノカグヤマ)」から採取した銅で鏡を作った。そうして石凝姥命が造った鏡「八咫鏡(ヤタノカガミ)」は三種の神器の内の一つであり、天照大御神の御神体として伊勢神宮の内宮に奉安されている。その八咫鏡を造るに先立って石凝姥命が造った鏡が二枚あり、その二枚の鏡を「日像鏡」と「日矛鏡(ヒボコノカガミ)」という。その二枚の鏡の内、日像鏡を御神体として日前大神は奉安されており、天照大御神の御神体である八咫鏡に先立って造られた鏡である事から、その日像鏡と、日像鏡を御神体とする神である日前大神は、天照大御神の前霊(サキミタマ)であるとされ、多くの人々から尊崇されている。また、日前大神は天照大御神の別名であるともされる。しかし日前大神が天照大御神の別名とされる事については諸説あり、日前大神が天照大御神の別名では無いとする説では、日前大神は天照大御神の御神体である八咫鏡と同等のものとされる日像鏡を御神体としている事から、日前大神はそれだけ重要な神とされ、準皇祖神の扱いを受けていた神であるとする説がある。また、日神(天照大御神)に対する「日前」大神という名称からも、特別な神であると考えられている。また、伊勢国が大和国への東の出口に対して、日前神宮は西の出口にある為、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたとする説もある。

出典:
Wikipedia(「日前神宮・國懸神宮」のページ)
日前神宮・國懸神宮 公式サイト
週刊 日本の神社 第90号「日前神宮・國懸神宮」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
日前大神のデザインは、日像鏡を御神体としている神なので、頭が鏡の様な、体に勾玉を付けた機械的な姿の神に描きました。

2020年2月20日木曜日

「奥津比売神」



奥津比売神(オキツヒメノカミ)<奥津姫神(オキツヒメノカミ)、奥津日売神(オキツヒメノカミ)、奥津比女大神(オキツヒメノオオカミ)>

日本神話に登場する神で、奥津比売神は竃を司る神である。「古事記」では奥津比売神は対となる「奥津日子神(オキツヒコノカミ)」と共に、「大年神(オオトシノカミ)」と「天知迦流美豆比売(アメシルカルミズヒメ)」の二柱の神から生まれた子供の神であるとされる。また、古事記には奥津比売神と奥津日子神は「この神々は諸人に竃の神として拝される」と書かれている。竃は、古来より人間の生存に必要な食事を煮炊きする場所であり、また、その竃で煮炊きした食事で人間は命を繋ぐ事が出来たので、竃は神聖視され重要な場所とされてきた。その竃の神である奥津比売神と奥津日子神は、薪を燃やして煮炊きをする竃の火に宿る神霊であるとも考えられる。また奥津比売神と奥津日子神の神名に共通する「オキ」とは「熾火」の「熾」の意味である。昔は現代のように簡単に火を熾せる道具が無い為、竃の熾火を絶やさない様にする事は非常に重要だった。その熾火の意味を持つ神名を持った奥津比売神と奥津日子神は、竃を守護し、生活に必要な竃の中の熾火を保持し、また逆に強すぎる火は退け、火事を起こさない様にする火伏せの神でもあった。また別の説としては神名の「奥津」とは、竃が家の奥の場所にある事に由来するという説もある。奥津比売神には「大戸比売神(オオトヒメノカミ、または、オオベヒメノカミ)」という別名があり、この別名の「オオト、または、オオベ」の語義については「大火処(オオホト)」の転訛、あるいは「大(オオ)+竃(「ヘ」=かまどの古語)」を意味すると考えられる。また奥津比売神は奥津日子神と共に、神仏習合の際に、仏教で重要な「三宝(仏・法・僧)」を守護する神「三宝荒神」と習合した。

出典:
Wikipedia(「かまど神」のページ)
神魔精妖名辞典
「日本の神様」がよくわかる本(PHP文庫)
日本の神々完全ビジュアルガイド(KANZEN)

作者ひとこと:
奥津比売神のデザインは、顔と手だけの姿に描きました。竃の火に宿る神なので、人間の様な肉体では無く、火で出来た実体が無い様な姿をイメージしました。

2020年2月19日水曜日

「奥津日子神」



奥津日子神(オキツヒコノカミ)<奥津彦神(オキツヒコノカミ)、奥津彦命(オキツヒコノミコト)、奥津日子大神(オキツヒコノオオカミ)>

日本神話に登場する神で、奥津日子神は竃を司る神である。「古事記」では奥津日子神は対となる「奥津比売神(オキツヒメノカミ)」と共に、「大年神(オオトシノカミ)」と「天知迦流美豆比売(アメシルカルミズヒメ)」の二柱の神から生まれた子供の神であるとされる。また、古事記には奥津日子神と奥津比売神は「この神々は諸人に竃の神として拝される」と書かれている。竃は、古来より人間の生存に必要な食事を煮炊きする場所であり、また、その竃で煮炊きした食事で人間は命を繋ぐ事が出来たので、竃は神聖視され重要な場所とされてきた。その竃の神である奥津日子神と奥津比売神は、薪を燃やして煮炊きをする竃の火に宿る神霊であるとも考えられる。また奥津日子神と奥津比売神の神名に共通する「オキ」とは「熾火」の「熾」の意味である。昔は現代のように簡単に火を熾せる道具が無い為、竃の熾火を絶やさない様にする事は非常に重要だった。その熾火の意味を持つ神名を持った奥津日子神と奥津比売神は、竃を守護し、生活に必要な竃の中の熾火を保持し、また逆に強すぎる火は退け、火事を起こさない様にする火伏せの神でもあった。また別の説としては神名の「奥津」とは、竃が家の奥の場所にある事に由来するという説もある。また奥津日子神は奥津比売神と共に、神仏習合の際に、仏教で重要な「三宝(仏・法・僧)」を守護する神「三宝荒神」と習合した。

出典:
神魔精妖名辞典
「日本の神様」がよくわかる本(PHP文庫)
日本の神々完全ビジュアルガイド(KANZEN)

作者ひとこと:
奥津日子神のデザインは、顔と手だけの姿に描きました。竃の火に宿る神なので、人間の様な肉体では無く、火で出来た実体が無い様な姿をイメージしました。

2020年2月18日火曜日

「大物忌神」



大物忌神(オオモノイミノカミ)<大物忌明神(オオモノイミミョウジン)、大物忌大神(オオモノイミノオオカミ)、大物忌命(オオモノイミノミコト)>

山形県の鳥海山頂にある「鳥海山大物忌神社」を中心に祀られている日本の神。名前が初めて文献に登場するのは「続日本紀(ショクニホンギ)」巻七、承和5(838)年の条である。「物忌」という言葉には穢してはならぬ山、禁忌の山という意味が込められているという。また「大物忌」とは天照大御神の朝夕の大御饌(おおみけ=お供え)を指すため、食物神である「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)<倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)>」と同一神とされ、鳥海山大物忌神社の社伝では、伊勢神宮の外宮に祀られている「豊受大神(トヨウケノオオカミ)」と同神としている。また、奈良県にある「廣瀬大社(ヒロセタイシャ)」の主祭神である「若宇加能売命(ワカウカノメノミコト)」は「日本書紀」によれば「大忌神(オオイミノカミ)といい、東京都にある「物忌奈命神社(モノイミナノミコトジンジャ)」の主祭神である「物忌奈命」と合わせて同一神ではないかと、鈴木重胤(スズキシゲタネ)の「日本書紀伝(ニホンショキデン)」で論じている。豊富な湧き水に恵まれた鳥海山の神霊は、水神および農業神の性格を持っており、日本海に暮らす漁師にとっては豊漁の神でもあった。また軍事的・政治的な側面から見れば、ヤマト王権の支配圏の北辺にあることから、大物忌神は国家を守る神ともされた。鳥海山は火山であり、噴火は大物忌神の怒りであると考えられ、噴火のたびにより高い神階が授けられた。

出典:
Wikipedia
神魔精妖名辞典
週刊 日本の神社 第87号「鳥海山大物忌神社」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
大物忌神のデザインは、大物忌神が鳥海山の神霊なので、雄大な鳥海山を表す雲と、噴火を表す火を付けている神の姿に描きました。顔の模様は大物忌神の「大」の漢字の様になっています。

2020年2月17日月曜日

「駒形大神」



駒形大神(コマガタノオオカミ)<駒形神(コマガタシン)>

日本において信仰される神の一柱で、岩手県にある神社、駒形神社(奥州市水沢中上野町の本社、胆沢郡金ヶ崎町西根の駒ヶ岳山頂の奥宮、胆沢郡金ヶ崎町西根雛子沢の里宮からなる)に主祭神として祀られている。また、岩手県の駒形神社を本源として、駒形神社は日本各地にあり、中部・関東から東北にかけて広く分布している。それらの駒形神社の主祭神も駒形大神(駒形大明神とも)である。現在、駒形神社の祭神として、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、天之常立神(アメノトコタチノカミ)、国狭立尊(クニノサタチノミコト)、吾勝尊(アカツノミコト※天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)の事)置瀬尊(オキセノミコト※瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の事)、彦火尊(ヒコホノミコト※彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト))の6柱の神々の総称を駒形大神としているが、これは江戸時代以降の事である。本来の駒形大神は、駒ヶ岳の神霊であり、その駒ヶ岳の神霊である御神体と駒形大神を祀った社が、駒形神社である。その駒形大神をどの人格神に比定するかは諸説が多く、今の駒形神社に祀られている6柱の神々の総称を駒形大神とする説や、駒形大神は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)であるという説、駒形大神は天照大御神であるという説、駒形大神は天忍穂耳尊であるという説がある。また駒形大神は馬の守護神である。その事から元来の駒形大神は、駒ヶ岳を御神体として神の乗る神馬、その神馬により神の降臨を願う信仰に端を発する神であるという説もある。また馬の守護神である駒形大神を祀る駒形神社が東日本、特に岩手県と宮城県に集中しているが、古代にこの一帯が馬、特に軍馬の生産地であり、そこに祀られた駒形大神は馬、特に軍馬の守護神とされたとも考えられる。また神仏習合では駒形大神は、馬頭観音や大日如来と習合していた。

出典:
Wikipedia(「駒形神社」のページ)
神魔精妖名辞典

作者ひとこと:
駒形大神のデザインは、雲の中から頭を出している神の姿に描きました。駒形大神の顔は習合した馬頭観音の顔を意識して忿怒の顔にしました。

2020年2月16日日曜日

「家都美御子大神」



家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)<家都美子大神(ケツミコノオオカミ)、熊野坐大神(クマヌニマスオオカミ)、熊野加武呂乃命(クマヌカムロノミコト)>

日本において信仰される神の一柱で、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)で三社共通の祭神である、三柱の神々の内の一柱。特に、和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社、熊野本宮大社では主祭神である。家都美御子大神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一視される。他にも家都美御子大神は伊邪那美神の事であるとする説や、家都美御子大神は五十猛神(イソタケルノカミ)の事であるとする説もある。また、家都美御子大神は菊理媛神(ククリヒメノカミ)と関係する神であるとする説もある。また、家都美御子大神と同一視される素戔嗚尊や五十猛神に関する神話として、「日本書紀」に、素戔嗚尊が多くの木種を持って天からやって来て、息子の五十猛神と、五十猛神の妹の神である大屋津姫命(オオヤツヒメノミコト)と枛津姫命(ツマツヒメノミコト)に命じて大八洲国一帯に木種を植えさせた結果、大八洲国に樹木が繁殖し、大八洲国は青山に被われる国となった。その後、大八洲国の植樹事業を終えた五十猛神は、熊野の地に住んだ。この事から熊野のある辺りを「木の国」と古くは呼んだが、後に改められて「紀伊国」となった、とある。その素戔嗚尊や五十猛神と同一視される家都美御子大神も樹木神であり、そもそも熊野の山や樹木の精霊としての性格を持っている神であるという説もある。他にも、太陽の使いとされる八咫烏(ヤタガラス)を神使とする事から、家都美御子大神は太陽神であるとする説や、かつて熊野本宮大社は、熊野川、音無川、岩田川に挟まれた中洲「大斎原(オオユノハラ)」に鎮座していた事から、その熊野本宮大社の主祭神、家都美御子大神は水神であるとする説もある。また、神仏習合において、家都美御子大神の本地仏(神の正体とされる仏)は阿弥陀如来であるとされる。

出典:
Wikipedia(「熊野権現」「熊野本宮大社」のページ)
週刊 日本の神社 第3号「熊野三山」(デアゴスティーニ・ジャパン)
「日本の神様」がよくわかる本(PHP文庫)

作者ひとこと:
家都美御子大神のデザインは雲の様な頭髪と身体、木の板を繋ぎ合わせた様な鎧を付けた姿の神に描きました。

2020年2月15日土曜日

「夫須美大神」



夫須美大神(フスミノオオカミ)<熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)、熊野牟須美神(クマノムスミノカミ)>

日本において信仰される神の一柱で熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)で三社共通の祭神である、三柱の神々の内の一柱。特に、和歌山県新宮市新宮1にある神社、熊野速玉大社と、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある神社、熊野那智大社では主祭神である。熊野夫須美大神は伊邪那美神と同一視される。他にも熊野夫須美大神は、事解男命(コトサカノヲノミコト)の事であるとする説や、熊野夫須美大神は熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)の事であるとする説もある。また、熊野夫須美大神の神名の「夫須美」とは「結(ムスビ)」に通じ、熊野夫須美大神は万物を生成、育む御神徳が高い神であるとされる。また神仏習合において、熊野夫須美大神の本地仏(神の正体とされる仏)は千手観音であるとされる。

出典:
Wikipedia(「熊野権現」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」のページ)
週刊 日本の神社 第3号「熊野三山」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
夫須美大神のデザインは、夫須美大神と同一視される伊邪那美神の黄泉国での姿のイメージも入れつつ、描きました。

2020年2月14日金曜日

「熊野速玉大神」



熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)

日本において信仰される神の一柱で、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)で三社共通の祭神である、三柱の神々の内の一柱。特に、和歌山県新宮市新宮1にある神社、熊野速玉大社では主祭神である。熊野速玉大社では、熊野速玉大神は伊邪那岐神と同一視され、熊野速玉大神の「速玉」とは、伊邪那岐神の映え輝く御神霊を讃えた御名であるとされる。また、熊野本宮大社では熊野速玉大神は「日本書紀」に登場する「速玉之男神(ハヤタマノヲノカミ)」と同一視されている。また、和歌山県新宮市の神倉神社は熊野速玉大社の摂社であり、神倉神社のある神倉山には、御神体である「ゴトビキ岩(ゴトビキとはヒキガエルを表す新宮の方言)」がそびえている。熊野速玉大神は、同じく熊野速玉大社の主祭神である熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)と共に、元々は神倉山のゴトビキ岩を磐座として祀られていた神で、いつ頃からか(景行天皇の時代とも)、祭祀の場を現在の地に遷した事から、神倉神社を元宮、熊野速玉大社を新宮と称する様になったとされる。また、神仏習合において、熊野速玉大神の本地仏(神の正体とされる仏)は薬師如来であるとされる。

出典:
Wikipedia(「熊野権現」「熊野速玉大社」のページ)
週刊 日本の神社 第3号「熊野三山」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
熊野速玉大神のデザインは、冠を被った目が四つある神の姿に描きました。

2020年2月13日木曜日

「今木神」



今木神(イマキノカミ)<今木皇大神(イマキスメオオカミ)>

日本において信仰される神の一柱で、京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社に御祭神として鎮まっている。平野神社の創建は延暦13(794)年、桓武天皇の平安京遷都に伴い、平城京の田村後宮から、平野の地に遷されたという。また、近年の研究によると、元々は桓武天皇の生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って、平安京大内裏近くに移し祀られた事に始まると推測されている。現在の平野神社の本殿は四殿二棟からなり、第一殿に「今木皇大神(イマキスメオオカミ)」、第二殿に「九度大神(クドノオオカミ)」、第三殿に「古開大神」、第四殿に「比賣大神(ヒメノオオカミ)」の四座の神々が平野神社の御祭神である。これら、四柱の御祭神の内、今木皇大神(今木神)が主神である。また、平野神社の御祭神四柱の神々の総称である「平野神」という呼称は、元々は主神である今木神のみを指す呼称であったが、後に御祭神四柱の総称としての使用にも変化している。今木神は、「今」=「現在」、「木」=「大きく太く真っ直ぐに育つ事」を表す神であるとされ、源気新生、活力生成の神であるとされている。今木神は延暦元(782)年当時、平城京の田村後宮に祀られていた。それ以前の出自については諸説があり、特に知られている説では、今木神の「今木」を「今来」、即ち、新しく来た渡来人の意味であるとして、元々、この神は「今来郡(大和国高市郡)」で渡来人である百済系の人々が祀っていた渡来神であったという説である。その説では、今来郡で百済系の人々が祀っていた神を、平城京の田村後宮に遷して祭祀したのは、高野新笠とその子「山部親王(後の桓武天皇)」とされ、高野新笠の父「和乙継(ヤマトノオトツグ)」の出自である「和氏(ヤマトウジ)」は「続日本紀(ショクニホンギ)」では和氏の出自は百済武寧王の子の純陀太子を始祖とする氏族と記し、和氏は渡来系の氏族であるとする。その和氏の和乙継の娘、高野新笠が田村後宮に祀った今木神とは、和氏の祖神である百済系の渡来神であるという説である。しかし、平野神社ではこの渡来神説を誤りとしている。また、奈良時代末期から「臣籍降下(シンセキコウカ)」(皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りる事)の制度が定まり、「源(ミナモト)」、「平(タイラ)」、高階(タカシナ)」、「大江(オオエ)」、「中原(ナカハラ)」、「清原(キヨハラ)」、「秋篠(アキシノ)」、「菅原(スガワラ)」の姓を賜る者が出てくる。平野神社の御祭神、四柱の総称である平野大神は、この八姓各家の氏神とされている。平野大神の中で今木神は源氏の氏神であるとされる。

出典:
Wikipedia
平野神社 オフィシャルサイト
週刊 日本の神社 第61号「松尾大社・平野神社」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
今木神のデザインは頭に冠を被り、羽衣と衣を纏った神の姿に描きました。

2020年2月12日水曜日

「古開神」



古開神(フルアキノカミ)<古開大神(フルアキノオオカミ>

日本において信仰される神の一柱で、京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社に御祭神として鎮まっている。平野神社の創建は延暦13(794)年、桓武天皇の平安京遷都に伴い、平城京の田村後宮から、平野の地に遷されたという。また、近年の研究によると、元々は桓武天皇の生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って、平安京大内裏近くに移し祀られた事に始まると推測されている。現在の平野神社の本殿は四殿二棟からなり、第一殿に「今木皇大神(イマキスメオオカミ)」、第二殿に「九度大神(クドノオオカミ)」、第三殿に「古開大神」、第四殿に「比賣大神(ヒメノオオカミ)」の四座の神々が平野神社の御祭神である。古開神は、邪気を振り開く平安の神である。古開神は平野神社関係記事にしか見えない。また文献では、古開神は「九度・古開」と一対として扱われている事から、そこから様々な説が唱えられており、古開神は渡来神であり、九度神と共に九度神社に祀られたとする説や、古開神と九度神は、元は同一の神であったとする説もある。また、奈良時代末期から「臣籍降下(シンセキコウカ)」(皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りる事)の制度が定まり、「源(ミナモト)」、「平(タイラ)」、高階(タカシナ)」、「大江(オオエ)」、「中原(ナカハラ)」、「清原(キヨハラ)」、「秋篠(アキシノ)」、「菅原(スガワラ)」の姓を賜る者が出てくる。平野神社の御祭神、四柱の総称である平野大神は、この八姓各家の氏神とされている。平野大神の中で古開神は高階氏の氏神であるとされる。

出典:
Wikipedia(「平野神社」のページ)
平野神社 オフィシャルサイト
週刊 日本の神社 第61号「松尾大社・平野神社」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
古開神のデザインは、機械の様な青銅器の様な姿の神に描きました。また古開神は、竃の神である九度神と関連があるとされるとも考えられているらしいので、竃と関連のある火が伴っている姿にしました。

2020年2月11日火曜日

「久度神」



久度神(クドノカミ)<久度大神(クドノオオカミ)>

日本において信仰される神の一柱で、京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社に御祭神として鎮まっている。平野神社の創建は延暦13(794)年、桓武天皇の平安京遷都に伴い、平城京の田村後宮から、平野の地に遷されたという。また、近年の研究によると、元々は桓武天皇の生母の高野新笠の祖神(桓武天皇外戚神)として平城京に祀られた神祠であったが、それが平安京遷都に伴って、平安京大内裏近くに移し祀られた事に始まると推測されている。現在の平野神社の本殿は四殿二棟からなり、第一殿に「今木皇大神(イマキスメオオカミ)」、第二殿に「久度大神」、第三殿に「古開大神(フルアキノオオカミ)」、第四殿に「比賣大神(ヒメノオオカミ)」の四座の神々が平野神社の御祭神である。久度神は、神名の「クド(竃、かまど)」に見えるように竃の神である。また、他の説では、高野新笠の母方の「土師氏(ハジウジ※後の「大枝氏、大江氏」)」によって祀られた祖神とする説、久度神が竃の神である事から、中国など東アジアに見られる、竃の神「竃王神」と見て、渡来神とする説もある。この久度神は、元々は「延喜式」神名帳に大和国平群郡の式内社として記載されている久度神社(奈良県北葛城郡王寺町)の祭神とされている。また、奈良時代末期から「臣籍降下(シンセキコウカ)」(皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りる事)の制度が定まり、「源(ミナモト)」「平(タイラ)」「高階(タカシナ)」「大江(オオエ)」「中原(ナカハラ)」「清原(キヨハラ)」「秋篠(アキシノ)」「菅原(スガワラ)」の姓を賜る者が出てくる。平野神社の御祭神、四柱の総称である平野大神は、この八姓各家の氏神とされている。平野大神の中で久度神は平家の氏神であるとされる。また久度神は生活安泰にご利益のある神であるとされている。

出典:
Wikipedia
平野神社 オフィシャルサイト
週刊 日本の神社 第61号「松尾大社・平野神社」(デアゴスティーニ・ジャパン)

作者ひとこと:
久度神のデザインは、三つの目を持った神の姿に描きました。また、同じ様に竃の神であるとされる荒神(三宝荒神)などのイメージも入っています。

2020年2月10日月曜日

「御倉板挙之神」



御倉板挙之神(ミクラタナノカミ)

日本神話に登場する神で「古事記(コジキ)」にのみ名前がみえる。「古事記」によると、黄泉国から逃げ出した伊邪那岐命は黄泉国の穢れを落とそうと、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(ツクシノヒムカノタチバナノヲドノアハキハラ)」という所で、禊ぎを行うと、その禊ぎから様々な神々が生まれ、禊ぎの最後に伊邪那岐命が左目を洗うと「天照大御神(アマテラスオホミカミ)」が、右目を洗うと「月讀命(ツクヨミノミコト)」が、鼻を洗うと「建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)」が生まれた。この三柱の神は特に貴い神だったので、「三貴子(サンキシ)」と呼ばれる。その三貴神の内の一柱、天照大御神に伊邪那岐命は「高天原(タカマノハラ※天にある神々の住まう地)」の統治を任せた。その天照大御神に伊邪那岐命が高天原の統治を任せる時に、首飾りにしていた玉を天照大御神に渡したのだが、この伊邪那岐命から天照大御神に渡された首飾りの玉が御倉板挙之神である。御倉板挙之神という神名は「倉の棚の上に存在する神」という意味である。

出典:
神魔精妖名辞典
日本神話・神社まとめ
図解日本神話(新紀元社)

作者ひとこと:
御倉板挙之神のデザインは、沢山の小さい勾玉をぐるりと付けた大きな玉の姿に描きました。玉であり、神でもあるので、玉の中に顔が浮かび上がっています。

2020年2月9日日曜日

「玉祖命」



玉祖命(タマノオヤノミコト)

日本神話に登場する神。三種の神器の一つである「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」を作った神で、「玉造り」、つまり石を加工して玉類を製造する「玉造部(タマツクリベ)」の祖先とされる。玉祖命という表記は「古事記(コジキ)」のみであり、「日本書紀(ニホンショキ)」には「玉屋命(タマノヤノミコト)」と記されている。また「日本書紀」の岩戸隠れの段において、第二の一書には「玉造部の遠祖・豊玉神(トヨタマノカミ)」、第三の一書には「玉作の遠祖、伊弉諾尊(イザナギノミコト)の児・天明玉命(アメノアカルタマノミコト)」と書かれ、どちらも玉造部の祖としていることから、玉祖命と同神と考えられている。天孫降臨の際「邇邇藝命(ニニギノミコト)」に随伴した「五伴緒神(イツトモノオノカミ)」の一柱であり、その後は玉祖神社に居住して中国地方を治めたという逸話も残っている。

出典:
Wikipedia
神魔精妖名辞典
日本の神々完全ビジュアルガイド(KANZEN)

作者ひとこと:
玉祖命のデザインは大きな勾玉の付いた冠を被った、8本の触手の様な腕を持った神の姿に描きました。

2020年2月8日土曜日

「柏渡神」



柏渡神(カシワノワタリノカミ)<柏済神(カシワワタリノカミ)>

日本神話に登場する神。「日本書紀(ニホンショキ)」によると、柏渡神は、難波の柏済(ナニワノカシワワタリ=大阪市淀川河口付近の船着場)の神で、柏渡神には害をなす心があり、道を行く人々に毒気を放って苦しめる荒ぶる神であった。しかし、熊曾を退治して海路、大和に帰る途中だった「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」に柏渡神は殺されて、退治された。

出典:
Wikipedia(「ヤマトタケル」のページ)
日本神話・神社まとめ(「西国遠征の報告」のページ)
週刊 日本の神社「秩父三社」(デアゴスティーニ・ジャパン)(「神話を読む」のページ)

作者ひとこと:
柏渡神のデザインは両生類のような、龍のような姿の神に描きました。

2020年2月7日金曜日

「穴渡神」



穴渡神(アナノワタリノカミ)<穴済神(アナワタリノカミ>

日本神話に登場する神。「日本書紀(ニホンショキ)」によると、穴渡神は、吉備の穴済(キビノアナワタリ=広島県福山市の海)の神で、穴渡神には害をなす心があり、道を行く人々に毒気を放って苦しめる荒ぶる神であった。しかし、熊曾を退治して海路、大和に帰る途中だった「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」に穴渡神は殺されて、退治された。また「古事記(コジキ)」に、倭建命(ヤマトタケルノミコト)は熊襲建(クマソタケルノミコト)を討った後、山の神、河の神、穴戸の神(アナトノカミ)を平定したとあり、この「穴戸の神」と「穴渡神」は、同じ神であると思われる。

出典:
Wikipedia(「ヤマトタケル」のページ)
日本の神話・神社まとめ(「西国遠征の報告」のページ)
週刊 日本の神社 第43号「秩父三社」(デアゴスティーニ・ジャパン)(「神話を読む」のページ)

2020年2月6日木曜日

「手置帆負神」



手置帆負神(タオキホオイノカミ、タキホイノカミ)<手置帆負命(タオキホオイノミコト、タキホイノミコト)>

日本神話に登場する神。「日本書紀(ニホンショキ)」によれば、国譲りの際、高天原の長である高御産巣日神(タカミムスビノカミ)が国津神のオオクニヌシノカミ(オオクニヌシノカミ)を祀る為に派遣された神事に関連する神の一柱で、手置帆負神は「作笠者(カサヌイ※笠を作る職人)」として遣わされた。また「古語拾遺(コゴシュウイ)」では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が天岩戸(アマノイワト)に隠れてしまい、世界が常闇となってしまい困り果てた神々は、その打開策を知恵の神である「思兼命(オモイカネノミコト)」に考えさせる。思兼命は「太玉命(フトダマノミコト)を中心に、太玉命の配下の神々を率いて、天照大御神の心を和ませる為に大御神に捧げる和弊を作らせよう」と提案する。その提案に従って神々はそれぞれ分担して和弊を製作した。手置帆負神は彦狭知神と共に「天御量(アマツミハカリ※天上の物差し)を持って、大小の木材を切り出し、その木材で「瑞殿(ミズノミアラカ※立派な宮殿)を造宮し、祭具として使う笠や矛、盾を作った。また同じく「古語拾遺」の他の段では太玉命の孫とされる「天富命(アメノトミノミコト)」が手置帆負神の子孫と、彦狭知神の子孫達を率いて、神武天皇即位の時に、「斎斧(イミオノ)」と「斎鉏(イミスキ)」を用いて木材を切り出し、「邇邇藝命(ニニギノミコト)」を奉る為の「美豆乃御殿(ミズノミアラカ)」を造宮した。手置帆負神という神名の「タオキ」は「手伎(タキ=手で行う事)」、「ホオイ」は「秀胤(ホヒ=秀でた血筋)」と解して、この神が手工に熟達している事を表すと解される。また手置帆負神が神社に祀られる時は、彦狭知神と共に祀られている。

出典:
神魔精妖名辞典
週刊 日本の神社(デアゴスティーニ・ジャパン)
⇒第20号「熱田神宮」、第116号「雄山神社」(「神話を読む」のページ)

作者ひとこと:
手置帆負神のデザインは両手に盾を持ち、顔に盾の様な仮面を付けた神の姿に描きました。

2020年2月5日水曜日

「彦狭知神」



彦狭知神(ヒコサチノカミ、ヒコサシリノカミ)<彦狭知命(ヒコサチノミコト、ヒコサシリノミコト)>

日本神話に登場する神。「日本書紀(ニホンショキ)」によれば、国譲りの際、高天原の長である「高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)」が国津神の「大国主神(オオクニヌシノカミ)を祀る為に派遣された神事に関連する神の一柱で、彦狭知神は「作盾者(タテヌイ※盾を造る職人)」として遣わされた。また「古語拾遺(コゴシュウイ)」では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が天岩戸(アマノイワト)に隠れてしまい、世界が常闇となってしまい困り果てた神々は、その打開策を知恵の神である「思兼命(オモイカネノミコト)」に考えさせる。思兼命は「太玉命(フトダマノミコト)を中心に、太玉命の配下の神々を率いて、天照大御神の心を和ませる為に大御神に捧げる和弊(ニキテ)を作らせよう」と提案する。その提案に従って神々はそれぞれ分担して和弊を製作した。彦狭知神は手置帆負神(タオキホオイノカミ)と共に「天御量(アマツミハカリ※天上の物差し)」を持って、大小の木材を切り出し、その木材で「瑞殿(ミズノミアラカ※立派な宮殿)」を造宮し、祭具として使う笠や矛、盾を作った。また同じく「古語拾遺」の他の段では太玉命の孫とされる「天富命(アメノトミノミコト)」が手置帆負神の子孫と、彦狭知神の子孫達を率いて、神武天皇即位の時に「斎斧(イミオノ)」と「斎鉏(イミスキ)」を用いて木材を切り出し、「邇邇藝命(ニニギノミコト)」を奉る為の「美豆乃御殿(ミズノミアラカ)」を造宮した。彦狭知神という神名については、「サシ(物差し)を知る」事をもって「サシリ」とする説や、「幸彦(サチヒコ)」の字が逆になり「ヒコサチ」となったとする説などがある。また彦狭知神は、神話の中で物差しを持って木材を切り出し、宮殿を作った事から、手置帆負神と共に、計量や建築、工作を司る神として祀られている。

出典:
神魔精妖名辞典
週刊 日本の神社(デアゴスティーニ・ジャパン)
⇒第20号「熱田神宮」、第116号「雄山神社」(「神話を読む」のページ)

作者ひとこと:
彦狭知神のデザインは楯や釘、剣や霊玉などが集まった神霊の様な姿に描きました。

2020年2月4日火曜日

「水蛭子神」



水蛭子神(ヒルコノカミ)<蛭子神、蛭子命(ヒルコノミコト)、蛭児(ヒルコ)>

日本神話に登場する神。伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の間に生まれた第一子である。しかし子作りの際、女神である伊邪那美命のほうから声をかけてしまい、それが原因で不具の子が生まれてしまった。そのため二柱は、葦で出来た舟に入れて流してしまう。次いで生まれた淡島(アワシマ※淡路島ではない)も、子供の数には入れられなかった。棄てられた理由について、古事記には「わが生める子良くあらず」とあるのみで、どういった子であったかは不明であるが、名前から、ヒルのように骨のない子のことだと言われている。あるいは、形を成さない胎児のことではないかと考える医学者もいる。日本書紀では大日孁貴(オオヒルメノムチ※またの名を天照大神)、月の神であるツクヨミ(月夜見尊、月読尊)の次に生まれたのが、蛭児であると書かれている。彼は三歳になっても足腰が立たず、天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ※堅固な楠で作った船)に乗せて捨てられた。蛭児の次に素戔嗚尊(スサノオノミコト)が生まれて、何と三貴子の兄弟であった(ただし、日本書紀に三貴子という言葉は登場しない)。記紀には、その後の水蛭子の事は語られていないが、流れ着いたという伝説は日本各地に残っており、海の彼方の常世の国に渡ったとも考えられている。西宮神社の伝説では、摂津国西の浦(兵庫県西宮)の海岸に流れ着き、土地の人々は拾った彼を「戎三郎様(エビスサブロウサマ)」と呼んで大事に養い育てたと伝えられている。民間信仰においては、七福神の一人として「恵比寿(エビス)様」「恵比寿神」「戎大神(エビスオオカミ)」と呼ばれ親しまれた。豊漁や航海の安全、交易の守護神であり、また商売を繁盛させて富と幸福をもたらす福神として信仰されている。また蛭子、水蛭子と書いて「エビス」と読む場合もあるが、ヒルコとエビスを同一視する説は室町時代からおこった新しいものであり、それ以前に遡るような古伝承ではないが、古今集注解や芸能などを通じ広く浸透してきた。

出典:
Wikipedia(「ヒルコ」のページ)
神魔精妖名辞典(「水蛭子」のページ)
図解日本神話(新紀元社)

作者ひとこと:
水蛭子神のデザインは海月や蛭、クリオネやエイなどを合わせた様な軟体で、水の様に不定形なイメージの姿に描きました。

2020年2月3日月曜日

「塞坐黄泉戸大神」



塞坐黄泉戸大神(サヤリマスヨミドノオオカミ)<黄泉戸大神(ヨミトノオオカミ)>

日本の記紀神話(「古事記(コジキ)」と「日本書紀(ニホンショキ)」)に登場する神。古事記には「道返之大神(チカエシノオオカミ)」の別名として記されている。また日本書紀の第五段の一書(第六)には「泉門塞之大神(ヨミドニフタガリマスオオカミ、ヨミドニサヤリマスオオカミ)」とあり、別名として「道返神(チガエシノカミ)」の神名も併記されている。その他には同神を指すと思しき「泉守道者(ヨモツチモリビト)」という名称も見られる。火の神を生んだ「伊邪那美命(イザナミノミコト)」が女陰を火傷し亡くなった際、妻に会うため死者の世界である「黄泉国(ヨミノクニ)」へ「伊邪那岐命(イザナギノミコト)」は行くことにした。しかし、伊邪那美命の身体にはウジがわき、八つの雷神がまとわりついていた。その姿に恐れをなして逃げ出した伊邪那岐命に対し、伊邪那美命は「私を辱めたな」と「黄泉醜女(ヨモツシコメ)」や「黄泉軍(ヨモツイクサ)」達に後を追わせた。ついには伊邪那美命が自ら追ってきたので、現世と黄泉国の間にある「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」に千引石(チビキノイシ)を置いて、穴を完全に塞いでしまった。こうして現世と黄泉国は隔たり、行き来が難しくなってしまった。この岩に与えられた神名が塞坐黄泉戸大神である。黄泉の穢れが現世に湧き出るのを防ぐ神であり、塞の神(サイノカミ※村境や峠などに置かれる、外部からの疫病や悪霊などを防ぐ神)の源流とも考えられている。

出典:
Wikipedia(「神産み」のページ)
神魔精妖名辞典(「道返之大神」のページ)
図解日本神話(新紀元社)

作者ひとこと:
塞坐黄泉戸大神のデザインは、注連縄を張った大きな岩の姿に描きました。岩でもあり、神でもあるので顔があります。

2020年2月2日日曜日

「意富加牟豆美命」



意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)

日本神話(「日本書紀(ニホンショキ)」、「古事記(コジキ)」の記紀神話)に登場する桃であり神。「日本書紀」では「神産み」の第九の一書に登場する。それによると、伊邪那岐命(イザナギノミコト)は黄泉国で八柱の雷公に追われる。その時、道端に桃の木があり、伊邪那岐命はその桃の木の下に隠れて追い掛けて来る雷公達に桃の実を採って投げつけると、雷公達は撤退していった。これが、桃を用いて鬼を避ける由縁であると記されている。「古事記」では黄泉国の条に登場する。伊邪那岐命は黄泉国の住人となってしまった伊邪那美命との約束を破り、黄泉国の御殿の奥で腐り果てた伊邪那美命を見てしまい、その姿に恐れをなして逃げ出した。約束を違えられ、腐り果てた自分の姿を見られて辱められた伊邪那美命は、伊邪那岐神を捕らえる為に追っ手として黄泉軍(ヨモツイクサ)や黄泉醜女(ヨモツシコメ)などの黄泉国の魔物達を差し向けた。伊邪那岐命は追い掛けて来る黄泉国の魔物達をなんとかかわしながら、黄泉国と現世の境界にある坂「黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)」まで逃げて来た時、黄泉比良坂の麓に桃の木が生えていた。伊邪那岐命は桃の木から桃の実を三つ採って、追い掛けて来る黄泉国の魔物達に投げつけると、黄泉国の魔物達は全て逃げ去った。この功績により、桃の実は伊邪那岐命から「意富加牟豆美命」の神名を授けられ、そして伊邪那岐命に「お前が私を助けたように、葦原中国(アシハラノナカツクニ※地上世界の事)のあらゆる生ある人々が、苦しみに落ち、悲しみ悩む時に助けてやってくれ」と命じられた。なお、「日本書紀」では桃は登場するが、名前は記されていない。意富加牟豆美命の名前のオオカムは「大神」、ミは「実」ないし「霊」の意味で、「大いなる神のミ(霊威)」または「大いなる神の実」という意味で、桃の邪気を払うとされる力を神格化したものである。

出典:
Wikipedia
神魔精妖名辞典
図解日本神話(新紀元社)

作者ひとこと:
意富加牟豆美命のデザインは、頭に大きな桃の実を載せた童子や妖精の様な姿に描きました。

2020年2月1日土曜日

「黄泉軍」



黄泉軍(ヨモツイクサ)

日本神話に登場する妖怪、または怪物の様な存在。黄泉軍は日本神話において地下にあるとされる死者達が住んでいる死後の世界「黄泉国(ヨミノクニ)」に住んでいる悪鬼達である。黄泉軍という名前は「黄泉の国の兵隊」という意味であり、名前通り彼等は黄泉国に住む悪鬼の兵士達である。「古事記(コジキ)」によると、火の神「火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)」(火之夜藝速男神(ヒノヤギハヤヲノカミ)の別名)を生んだ際の火傷で死んだ伊邪那美命を取り戻す為に、死者の世界である黄泉国を訪れた伊邪那岐命は、伊邪那美命に「元の世界に戻れるかどうか、「黄泉神(ヨモツカミ、黄泉国を統治している神)」に相談してくるから、その間は決して私の姿を見ないでくださいね」と言われ待たされる事になった。しかし伊邪那岐命は姿を見てはいけないと約束したのにも関わらず、黄泉国の御殿の中に入って、伊邪那美命の腐り果てた姿を覗き見てしまい、その姿に恐れをなして逃げ出した。約束を違えられ、腐り果てた自分の姿を見られて辱められた伊邪那美命は、伊邪那岐命を捕らえる為に追っ手として「黄泉醜女(ヨモツシコメ)」達を差し向けたが、伊邪那岐命は蔓草の髪飾りの「黒御鬘(クロミカヅチ)」と「湯津津間櫛(ユツツマグシ)」という櫛の力によって黄泉醜女達を退けた。そこで伊邪那美命が次に追っ手として送り込んだのが、伊邪那美命の身体に纏まり付いていた八体の雷神「八雷神(ヤクサイカヅチノカミ)」と1500もの黄泉軍の軍勢であった。それらに追い掛けられた伊邪那岐命は「十拳剣(トツカノツルギ)」を抜いて後ろ手に黄泉の魔物達を牽制しながらも逃げ、なんとか黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)まで辿り着くと、そこに生えていた桃の木から三つ桃の実を採って、追い掛けて来る黄泉軍などの魔物に投げつけた。すると桃の実の持つ力によるものか、今まで追い掛けて来ていた黄泉軍などの魔物達は総崩れになって逃げ出した。

出典:
Wikipedia
神魔精妖名辞典
ピクシブ百科事典
図解日本神話(新紀元社)
カラー版 徹底図解 古事記・日本書紀(新星出版社)

作者ひとこと:
黄泉軍のデザインは鎧を身に付け、手が刀の様になっている骸骨の兵士の姿に描きました。