自己紹介

このブログでは、僕が描いた神話や伝説などに関する絵や、その絵の解説を載せています。
(イラスト、記事の執筆:マゴラカ、ワンタ) ※2024年度より、月・水・金曜日の21時に更新していきます。

2020年2月27日木曜日

「洩矢神」



洩矢神(モリヤノカミ、モレヤノカミ、モリヤシン、モレヤシン)

日本に伝わる神の一柱で、長野県諏訪地方で祀られ、地元の長野県諏訪地方の神話に登場する神である。神話において、洩矢神は「諏訪大社」に祀られている建御名方神(諏訪明神)の諏訪入りに抵抗した諏訪の土着神とされ、後に建御名方神(諏訪明神)に服従し、諏訪上社の神官の一つである「神長官(ジンチョウカン)」を代々務めてきた「守矢氏(モリヤシ)」の始祖となったとされる。また洩矢神は守矢氏が祀る神である。「ミシャグジ」と同一視される事もあり、洩矢神は山の神、氏神、安産の神、国造りの神の神格のある神とされ、人々から信仰されている。諏訪地方では建御名方神(諏訪明神)は天から守屋山(モリヤサン)(長野県諏訪市と伊那市との境にある山)に天降って、そこから現地の神々を征服した神とされている。宝治3(1249)年に諏訪上社の大祝(オオホウリ)の諏訪信重から鎌倉幕府に提出された「諏訪信重解状」によると、守屋山に天降った諏訪明神は守屋大臣(洩矢神の事)の領地を手に入れる為に、藤の鎰(カギ)を持ち出し、鉄の鎰を手にした守屋大臣と引き合ったところ、諏訪明神が勝ち、負けた守屋大臣は諏訪明神に追討されたとある。この話は室町時代の延文元(1356)年に成立した「諏訪大明神画詞」にもあり、ここでは両者の武器が、諏訪明神は「藤の枝」、洩矢神の神は「鉄輪」になっている。また諏訪氏(諏訪大社の大祝、または信濃国諏訪郡の領主を司った家柄)の家系図である。「神氏系図(前田氏本)」と「神家系図(千野家本)」にも、諏訪明神が「守屋」を追い落とし、その後諏訪明神は守屋山麓に社壇を構えたという同系統の伝承が語られている。また江戸期の伝承記録における異伝では洩矢神と藤島明神(諏訪明神)が天竜川の畔で争ったという神話が伝わる。この神話では、守屋大明神(洩矢神)と藤島大明神(諏訪明神)が相争った際に天竜川の両側に立っていた藤の木を絡ませたとされる。この時、藤島大明神は、今は藤島神社(岡谷市川岸三沢)がある場所に、天竜川を挟んだ、今は洩矢神社(岡谷市川岸東橋原)のある場所に守屋大明神が陣地を構え、藤島大明神は藤島神社の藤を、守屋大明神は洩矢神社の藤を、互いの陣地に向かって伸ばし、両者の藤は天竜川の上で絡み合い、絡み合ったまま、空中に花を咲かせ、その様はまるで、大きな橋に見える程に繁茂したという。洩矢神が建御名方神(諏訪明神)に服従した後は、洩矢神は建御名方神に抵抗し続けていた諏訪の土着神「矢塚男命(ヤツカオノミコト)」と戦った神話が伝わる。矢塚男命は外来の建御名方神に敗れて降伏した洩矢神を腰抜けと見なし、自分の手下達に洩矢神を罵倒させた。洩矢神も最初は馬耳東風と受け流していたものの、矢塚男命から宣戦布告の合図として建御名方神の館に赤い矢が射ち込まれると、挑戦に応じた建御名方神と洩矢神は軍勢を率いて矢塚男命の陣営を攻撃した。油断していた矢塚男命はすっかりと攻め立てられ、矢塚男命は遂には流れ矢に当たってしまう。矢塚男命は死ぬ間際に洩矢神に謝罪し、自分の大切な娘を建御名方神に差し上げた。建御名方神は、この娘を家臣の「彦狭知命(ヒコサシリノミコト)」の元に嫁がせ、この二柱は、矢塚男命の領地に永住した。明治初期成立の「神長守矢氏系譜」によれば、洩矢神には守宅神(モリタノカミ)と多満留姫(タマルヒメ)の二柱の御子神がおり、多満留姫は建御名方神の御子神である。出早雄命(イズハヤオノミコト)に嫁ぎ、守宅神は千鹿頭神(チカトノカミ)をもうけ、守宅神と千鹿頭神は洩矢神の祭政の跡継ぎとなった。しかし千鹿頭神は後に宇良古比売命(ウラコヒメノミコト)を娶ったが、この二柱の跡を継いだのは、建御名方神の孫神である児玉彦命であるとも書かれており、そうなると守矢氏は洩矢神の祭祀の後継者ではあっても、血族的子孫ではないとも解釈出来る。しかし守矢氏は洩矢神を一族の遠祖として敬っている。また、神仏習合において洩矢神は薬師如来と習合した。

出典:
Wikipedia

作者ひとこと:
洩矢神のデザインは、洩矢神と関連のある神々、ミシャグジや諏訪明神(建御名方神)が蛇神とされる説もある為、これらの神々と関連ある洩矢神の姿も蛇神の姿に描いてみました。

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