自己紹介

このブログでは、僕が描いた神話や伝説などに関する絵や、その絵の解説を載せています。
(イラスト、記事の執筆:マゴラカ、ワンタ) ※2024年度より、月・水・金曜日の21時に更新していきます。

2020年4月30日木曜日

「イッシー」



イッシー

鹿児島県指宿市にある湖、池田湖に棲んでいるとされる怪物、または未確認動物。イッシーの体長は約10~20mと言われ、背中にはコブが二つあり、体色は黒色、あるいは赤色とも言われる。巨大な蛇か、巨大な鰻の様な体をしているとされている。イッシーという名前は、有名なイギリスのネス湖に棲息するとされる「ネッシー」に倣って名付けられた。イッシーが初めて目撃されたのは1961年頃とされているが、池田湖では戦前から謎の怪物が目撃されていたとも言われている。1978年9月3日の午後6時頃、法事の為、指宿市のとある家に集まっていた20人程が、湖を猛スピードで横切る二つの黒っぽいコブを目撃した。この集団目撃事件により、イッシーは一躍、有名な怪物となった。1976年12月16日には鹿児島市在住の人が、初のイッシーのものとされる写真の撮影に成功した。1991年1月4日には指宿スカイラインをドライブしていた福岡市在住の一家が、ドライブ中、池田湖の湖面に黒い大きなコブを見つけ、持ち合わせた家庭用ビデオカメラで、撮影に成功した。1991年3月19日、湖畔から40m程離れた水面に黒いコブが出没した所を売店の従業員や観光客に目撃されている。そのコブは、30秒後に波間に姿を消したという。1991年3月24日には、共同通信社鹿児島支局の記者が目撃した湖面に水飛沫が立ち、その中を黒いコブが移動した。そのコブは一つになったり二つになったりしながら、最後は水中に潜っていたという。更に八日後の4月1日、今度はフジテレビの取材班が2度に渡ってイッシーらしき物体のビデオ撮影に成功した。イッシーの正体は謎であるが、池田湖には2m級のオオウナギが多く棲んでいるとされ、イッシーの正体として「巨大鰻」説が有力である。また、イッシーの出現時期から、池田湖に放流された大型魚「ハクレン」の群れの魚影の誤認ではないかとも言われている。ただ、コブが何であったかについては不明である。なお、池田湖には古くから伝承として「池田湖には主がいる」と言われていたり、「龍神伝説」が語り伝えられていたりする。

出典:
Wikipedia
本当にいる日本の「未知生物」案内(笠倉出版社)

作者ひとこと:
イッシーのデザインは、鰻や山椒魚をイメージしてヌルヌルな感じの巨大な怪物を描きました。

2020年4月29日水曜日

「トッシー」



トッシー

北海道虻田郡洞爺湖町と有珠郡壮瞥町にまたがる湖、洞爺湖に棲んでいるとされる怪物、または未確認動物。トッシーは1946年頃から目撃証言が寄せられている怪物で、当時の国鉄職員が洞爺湖の湖面を泳いでいる謎の生物を目撃したのが始まりである。また、1977年4月、洞爺湖畔のホテルの改装工事に携わっていた人が、湖面に蠢く生物を何度か目撃した。その生物は「まるで丸太が上下左右にくねる様に水面を進んでいた」という。また、伊達市の看護師の人は「湖畔のドライブインから人間ぐらいの丸太がくねくねと水面を動くのを見た」と証言している。トッシーの正体として巨大魚の可能性が高いとされており、一説には、それは巨大なナマズの可能性を示唆する声もある。また、一説には洞爺湖の中島に棲息するエゾシカの誤認説もささやかれている。エゾシカ同士の中で雌鹿の奪い合いに負けた雄鹿が、湖面を対岸に向かって泳いで行く姿が誤認されたのではないか、とも言われている。しかし、トッシーの目撃証言は極めて少なく、詳しい事は分かっていない。さらに最近ではトッシーの目撃も絶えて久しい為、トッシーの正体を特定するのは困難な状況である。

出典:
UMAファン~未確認動物
本当にいる日本の「未知生物」案内(笠倉出版社)

作者ひとこと:
トッシーのデザインは、枝分かれした鹿の様な一本角を頭に生やした、体が蛇の様に長い、アシカやオットセイの様な姿の怪獣に描きました。

2020年4月28日火曜日

「クッシー」



クッシー

北海道東部弟子屈町にある湖、屈斜路湖に棲んでいるとされる怪物、または未確認動物。クッシーは体長10~20mで、丸い顔と長い首を持ち、背中にコブを持った、黒茶色の水棲の怪物であるとされている。クッシーという名前は、有名なイギリスのネス湖に棲息するとされる「ネッシー」に倣って名付けられた。この怪物は1973年から目撃証言があり、目撃証言以外にも、湖面の波紋などが幾つかの写真にも納められているが、依然として正体は不明とされている。1972年11月、湖畔の国道を車で走行中に湖の岸に向かって移動してくる、ボートを逆さまにしたような物体をドライバーが目撃。それ以前にも怪物の目撃情報はあったが、1973年8月、中学生40人程が藻琴山への遠足中に目撃した事が知られ、全国的にクッシーの存在が知れ渡る事になった。1975年7月5日午前9時半ごろ、林業を営む男性が馬を使って湖畔での木の切り出し作業中、馬が急に何かに怯え始めた為に湖面の方を見ると、50m程先に、馬の頭よりずっと大きい、銀色の目を光らせた焦げ茶色の頭が顔を出しているのを目撃。そのうちに、この怪物は湖に姿を消したという。1988年にはクッシーをモーターボートで追跡して15m程まで近付いたとする者が現れた。彼によれば、クッシーの背中はイルカの様な黒ずんだものだったという。1997年6月には、弟子屈の消防署員が砂湯の沖でクッシーを目撃。およそ100m程先の沖に、全長20m程あるグレーメタリックの怪獣が頭を水面から出していたという。この怪物には背鰭があって、ハモの様な帯状の身体がはっきり確認できたという。その他にも1972年~1997年にかけて多数の目撃情報や撮影したとされる写真があるが、2000年代以降は目撃される事がほとんどない。クッシーの正体として、首長竜の生き残り説、イトウ説、アメマス説などがある。また、屈斜路湖には様々な言い伝えが残されており、アイヌの伝説にも湖に住む巨大な蛇の話が伝わっており、この蛇に鹿が丸呑みにされたなどと伝わっている。また湖に住む巨大なアメマスやヒラメの伝承もあり、これら巨大な蛇やアメマス、ヒラメの伝承とクッシーには何か関連があるのではないかとも指摘されている。また、明治時代に本土からこの地へとやって来た開拓民も、現地のアイヌから湖の主の事を聞かされ、「もし、湖の主を見ても誰にも話してはならない。もし話してしまうと災いが起こる」と言われたという。その為、開拓民も屈斜路湖で「主」を目撃しても、見て見ぬふりをしてきたとされ、この地に地震が起こる度に屈斜路湖の主の祟りだと恐れたという話がある。このため、湖の怪物の存在はあまり外部に広まらなかったとされる。勿論、これがクッシーの事を指しているとは限らない。また、湖が凍ると湖面が割れる現象があり、これはクッシーの仕業ではないかと地元では言われている。これは「御神渡り(おみわたり)」現象と言われている。同様の現象は長野県の諏訪湖でも観察されており、これは神が通った跡と説明されている。湖面に出来た氷が収縮と膨張を繰り返すと、湖面に氷の山が出来上がり、一見すると蛇の様な形になって湖面を縦断する。屈斜路湖でも、砂湯から10kmに及ぶ長い「御神渡り」が観測された事もある。アイヌに伝わる湖の蛇伝説もこれから連想されたのではないかという見方もある。

出典:
Wikipedia
本当にいる日本の「未知生物」案内(笠倉出版社)

作者ひとこと:
クッシーのデザインは、背中に二つのコブを持った首長竜と龍を合わせた様な姿の怪物に描きました。

2020年4月27日月曜日

「ヒチマジムン」



ヒチマジムン<シチマジムン>

沖縄県に伝わる妖怪または幽霊で、「マジムン」と呼ばれる悪霊の一種。沖縄県の国東地方ではヒチマジムンは、形の見えない雲か風の様な姿をしているとされ、風の様に山川を駆けるとされる。板戸の節穴から自在に出入りする事が出来、時には人間を連れ出して20、30里も離れた場所に置き去りにして捨てる事もある。またヒチマジムンは道の辻にいるとされ、人間を迷わせるのだと言う。また出会った人間に対して、赤飯か白飯かのどちらかを選ばせ、その人間の選んだ方を振る舞うが、実は赤飯も白飯も幻術の様なもので、赤飯も白飯もその様に見せているだけで、実際の所、赤飯は赤土、白飯は海の波飛沫であると言う。ヒチマジムンに出会った時は、男は褌を鉢巻として、女はメーチャ(下袴)を頭にかぶると、ヒチマジムンの害を受けなくて済むとされる。また、夜道を歩く時に、頭に櫛を挿していたり、手に篩を持っていたりすると、その人はヒチマジムンに連れ去られると言われている。沖縄県の中城村では、ヒチマジムンは黒い棹の様な背の高い妖怪であるとされる。これに出会った人が、この妖怪を見上げていると、ヒチマジムンの背はどんどん高くなり、最後には、見上げている人の方へいきなり倒れてきて、その人のシー(性)を奪うとされる。このヒチマジムンは豚に化ける事も出来るという。もしこのヒチマジムンに出会ったら、「シチチリ、シチチリ」と唱えて根元を刈る真似をすると、この妖怪を追い払えるとされる。沖縄県東風平町では、ヒチマジムンは龕が悪霊化した大きな黒い魔物であるとされ、沖縄県与那城では、ヒチマジムンは天まで届く大きさをしているとされていたり、また地面一杯に広がったりする事も出来るとても恐ろしいマジムンであるとされている。奄美群島の喜界島では、難産で死んだ女の霊が、夜間に天と地を繋ぐ黒煙の様な大円柱の姿で現れる「シチ」という妖怪が伝えられているが、このシチとヒチマジムンは同一視されている事もある。

出典:
Wikipedia(「マジムン」のページ)
神魔精妖名辞典(「シチマジムン」のページ)

作者ひとこと:
ヒチマジムンのデザインは、頭と手だけの悪霊の様な姿に描きました。伝承の様に、風の様にあちこちを駆け回っているイメージです。

2020年4月26日日曜日

「アフィラーマジムン」



アフィラーマジムン<アイフラーマジムン>

沖縄県読谷村(よみたんそん)に伝わる妖怪で「マジムン」と呼ばれる悪霊の一種。アフィラーマジムンは片脚の無いアヒルの姿をしているとされている。アフィラーマジムンは人と出会うと、その人の股の下をしきりにくぐろうとするが、もしアフィラーマジムンに股の下をくぐられてしまうと、その人は死んでしまうのだと言われている。その為、アフィラーマジムンに出会っても決して股の下をくぐられてはいけないと言われている。ある農民が夜中にアフィラーマジムンに出会ってしまった。アフィラーマジムンはしきりに農民の股の下をくぐろうとした為、その農民はアフィラーマジムンに石を投げつけたところ、アフィラーマジムンは無数の蛍となって散り、農民の周りを飛び回ったが、一番鶏の鳴き声と共に、その蛍の群れも消え去ってしまったという。沖縄県立読谷高等学校では、かつて運動場の前が谷底の様になっており、そこにアフィラーマジムンが現れたという。アフィラーマジムンは、アヒルが化けたものだとも、重病人の生霊が化けたものだとも言われている。

出典:
Wikipedia(「マジムン」のページ)
神魔精妖名辞典

作者ひとこと:
アフィラーマジムンのデザインは、一本脚のアヒルの姿の妖怪に描きました。

2020年4月25日土曜日

「海坊主」



海坊主(ウミボウズ)<海法師(ウミホウシ)、海入道(ウミニュウドウ)>

日本に伝わる海に住んでいる妖怪。その伝承は主に、日本各地の沿岸部に伝わっている。海坊主は夜間に海に出没する全身が真っ黒い坊主頭の巨人の姿をした妖怪で、それまで穏やかだった海面が突然盛り上がり、この妖怪が海中より現れる。そして現れた海坊主は船を破壊すると言われている。海坊主の大きさは、多くは数メートルから数十メートルで、かなり巨大であるとされるが、比較的小さな海坊主もいると伝えられている所もある。また、海坊主の顔などの特徴も様々に伝えられており、目があったり無かったり、頭に髪の毛が生えているとか、口を開けて笑った、など様々伝わっている。特に変わった姿の海坊主も伝わっており、明治21(1888)年12月26日の「都新聞」によると、和歌山県三井寺に、大猿の様な姿の体長7~8尺(約2.1~2.4m)、体重60~70貫(約225~263kg)の海坊主が上がったという。頭には茶色い髪が生え、橙色の目を持ち、口にワニ、腹は魚、尾はエビに似ており、その鳴き声は牛の様であったという。また、海坊主は巨人の様な巨大なものでは無く、裸体の坊主風なものが群れを成して船を襲うと伝えられている事も多く、それらの海坊主は船体や櫓(やぐら)に抱きついたり、船の篝火(かがりび)を消すといった行動をとるという。時に「ヤアヤア」と声を上げながら泳ぎ、櫓で殴ると「アイタタ」などと悲鳴を上げるという。この海坊主の弱点は煙草の煙であり、運悪く海坊主に出会ってしまった際には煙草を用意しておけば助かるという。海坊主は船を破壊する他にも、人を海中に引き込むともされている。そもそも海坊主を海上で見る事自体が不吉であるとされている事も多く、大抵海坊主を見てから天候が荒れ始めるのだと言われている。また、月末や盆、大晦日などに海へ出ると海坊主に出会うと言われている所も多い。随筆「雨窓閑話」に載っている話によると、桑名(現・三重県)では、月末には海上に海坊主が出るといわれ、船出を禁じられていた。徳蔵という船乗りが禁忌を破って、月末に一人で船に乗って海上に船出をした。すると海中から背の高さが一丈(約3m)程の海坊主が現れた。海坊主は徳蔵に「俺の姿は恐ろしいか」と訊いてきた。徳蔵は「世を渡る事以外に恐ろしいものはない」と答えると、海坊主は姿を消してしまったという。海坊主の姿を見る事は不吉とされている一方、愛媛県温泉郡中島町では反対に、海坊主の姿を見ると長寿になると伝わっている。姿を変化させる事が出来る海坊主も伝わっており、宮城県の気仙沼大島では、海坊主が美女の姿に変化し、人間と泳ぎを競ったという話がある。岩手県でも同様に言われるが、誘いに乗って泳ぐと海坊主はすぐに本性の巨大な姿に戻って、その人間を飲み込んでしまうという。愛媛県宇和島市では海坊主が按摩の座頭の姿に変化して、漁師の妻を殺したという話が伝わっている。東北地方では漁で最初に採れた魚を海の神に捧げるという風習があり、これを破ると海坊主が現れて船を壊し、船主を攫っていくと言われている。江戸時代の古典「奇異雑談集」では「黒坊主」という海坊主の記述がある。明応年間(1492年~1501年)に伊勢(三重県)から伊良湖(愛知県)に渡る船での話。この船の船頭は「独り女房」(乗員の中に女性が一人しかいない事。航海上の禁忌とされていた)を断ったのに、その女房の夫である善珍という人は女房を強引に船に乗せて出発させた。すると船は途中で暴風雨に遭い、船頭は、これは禁忌を破った事に対する龍神の怒りだと思って、乗員の荷から龍神の欲しがりそうな品物を次々に出しては海に投げ込ませた。しかし、暴風雨は収まらず、そのうちに海中から巨大な真っ黒な大入道の頭が波間に現れた。その頭の大きさは人間の頭の5~6人分程もあり、その目は天目(浅いすり鉢型の抹茶茶碗)の口の様に光り、この真っ黒い大入道の口は長く、まるで馬の様で、その大きさは2尺(約60cm)程であった。善珍の女房は意を決して、念仏を唱えながら海に身を投じると、この大入道の頭(黒入道)はその女房を咥えて、そして差し上げて見せた。その後、しばらくしてからやっと波風が弱まったという。この「奇異雑談集」の文中からでは、龍神と黒入道との関係が良く分からないが、おそらくは同じものと見なしているのだろう。この話の様に海坊主は龍神の零落した姿であるとされ、生贄を求めるものであるとも言われている。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
海坊主のデザインは、龍神を表す「龍」と書かれた冠を被った坊主頭の怪物に描きました。

2020年4月24日金曜日

「チュッシー」



チュッシー

日本の栃木県日光市の日光国立公園内にある湖、中禅寺湖に棲んでいるとされている怪物、または未確認動物。チュッシーは山椒魚に似た姿をしており、体長は15mもあるのだという。チュッシーはいつも湖の水中にいるわけではなく、時には陸上に上がる事も可能なのだという。このチュッシーの噂は「幻の動物たち・上」(ジャン・ジャック=バルロワ)などに記載が見られる他、情報は少ないが、中禅寺湖をフィールドにしている釣り人には有名な怪物である。また、1971年に某大学の調査団のダイバーが中禅寺湖の湖底にて、泥の中を這う巨大な蛙の様な四本足の怪物を目撃した事もある。この怪物は体長4m程で、尻尾があったのだという。

出典:
UMAファン~未確認動物
本当にいる日本の「未確認生物」案内(笠倉出版社)

作者ひとこと:
チュッシーのデザインは、オオサンショウウオの様なイモリの様な姿の怪物に描きました。

2020年4月23日木曜日

「家鳴」



家鳴(ヤナリ)<家鳴り、鳴家、鳴屋>

日本に伝わる妖怪または怪異。家鳴は家や家具が何の前触れもなく揺れ出す現象で、日本各地に伝承がある怪異の一つである。家や家具が何の前触れもなく揺れ出す為、家鳴は西洋の「ポルターガイスト」と同一視、または同一のものと解釈されている。現在でも温度や湿度の変動が原因で、家の構造材が軋んだ様な音を立てる事を「家鳴り」と呼ぶ。特に建材が馴染んでいない新築の家で起こる事が多く、ひどい場合は欠陥住宅として建築会社と家主がトラブルになる事もある。鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜行」では、小さな鬼の様な妖怪達が、家を揺すって家鳴りを起こして悪戯をしている様子が描かれている。この絵に特に解説はつけられていない。鳥山石燕はかなりの数の妖怪を創作しているが、この「画図百鬼夜行」では、過去の怪談本や民間で伝えられている妖怪などを選んで描いており、この「家鳴」も巷に知られた妖怪だったようである。昔は何でもないのに突然家が軋む事があると、この「画図百鬼夜行」に描かれた「家鳴」の様な妖怪の仕業だと考えたようである。他にも、家鳴りを起こすものとして、元々その家に住んでいた者の怨霊や、家を建てる時に上下を逆にして建てられた柱の「逆柱」が、その家に家鳴りを起こすとも言われている。

出典:
Wikipedia
ピクシブ百科事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
家鳴のデザインは、細長い手足を持った小鬼の様な姿の妖怪に描きました。

2020年4月22日水曜日

「倉ぼっこ」



倉ぼっこ(クラボッコ)

日本の岩手県遠野地方に伝わる妖怪。倉ぼっこは、蔵に棲んでいる妖怪で、蔵の守り神であるとされている。倉ぼっこは子供の姿の妖怪であるとされている。また、子供程の背丈をした全身毛むくじゃらの姿や、頭髪が体全体覆う程長い姿であると言われる事もある。この妖怪は、人間に危害を加えず、時には人間を助ける事もあるという。この倉ぼっこは「座敷童子」の一種であるとされ、座敷童子と同じように、倉ぼっこが棲んでいる蔵から離れて居なくなってしまうと、その倉ぼっこが離れた蔵がある家は、途端に家運が傾いてしまうという。倉ぼっこが姿を現す事は滅多になく、多くの場合は蔵の中で姿を見せず物音を立てるとされ、蔵の中で糸車を回す音や、お囃子の様な音を立てるのだという。民話研究家・佐々木喜善の著書「奥州のザシキワラシの話」では、倉ぼっこの名称を「クラワラシ」として、遠野一日市町の古屋酒屋という家の土蔵にいた蔵わらし(倉ぼっこ)の話がある。この蔵わらしは、人気のない蔵の中で異様な足音を立てたり、蔵の中に人が入ってくると、その人に「ほいほい」と子供の様な声で声をかけたという。民俗学者・柳田國男の著書「遠野物語拾遺」では、倉ぼっこの名称を「御蔵ぼっこ(オクラボッコ)」の名で述べ、遠野の村兵という家にいた御蔵ぼっこ(倉ぼっこ)の話がある。この家では、蔵の中に籾殻を撒いておくと、その後、蔵の中に小さな子供の足跡があちこちに残されていたという。後にこの家では、御蔵ぼっこが居なくなってしまい、この家の家運は少しずつ傾いたという。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
倉ぼっこのデザインは、毛むくじゃらの体と、細い手足を持った姿の妖怪に描きました。

2020年4月21日火曜日

「オマク」



オマク

岩手県遠野地方に伝わる怪異。生者や死者の思いが幻となって現れ、人の目に見えるというもの。「遠野物語拾遺」には多数の類話が見える。例えば以下のような話がある。土淵村(現在の岩手県遠野市)では、火事になった光岸寺の再建現場の昼休み、40人~50人いた大工たちの前に、棟梁の娘である美しい女性がやってきた。しかし、その娘は病に伏せて外出など出来ない状態のはずだった。棟梁はもう永くないのだろうと思っていると、その通り翌日に亡くなってしまったという。また、遠野の裏町のある家では、病の子供が瀕死の状態であるのに、可愛がってくれた者のところへ現れたという。その子供に「遅いので、すぐ帰れ」と言ったが、気になって見舞いに行くと、その子は先刻息を引き取ったが、今また生き返ったと大騒ぎになっていたという。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
オマクのデザインは、頭に簪を挿した女性の霊の様な姿に描きました。顔が紙の面で隠れているのは、顔を見てなくする事で、この世の存在ではない事を表しています。

2020年4月20日月曜日

「煙々羅」



煙々羅(エンエンラ)

日本に伝わる妖怪で、鳥山石燕の妖怪画集「今昔百鬼拾遺」に描かれている。画図では煙の中に不気味な顔が浮かび上がった姿で描かれており、この姿から煙々羅は煙の妖怪であるという。また解説文には「しずか家のいぶせき蚊遣(かやり)の煙むすぼぼれて、あやしきかたちをなせり。まことに羅(うすもの)の風にやぶれやすきがごとくなるすがたなれば、烟々羅(ゑんゑんら)とは名づけたらん」とある。この解説文の文中の「羅(うすもの)」とは、薄い織物の事で、煙がたなびく様を羅(うすもの)が風にたなびいている状態に見立てたものであるという。昭和・平成以降の妖怪関連の書籍では、煙々羅は煙の妖怪、または煙に宿った精霊であるとされ、様々な姿になりながら大気中を彷徨い、竈や風呂場から立ち上った煙の中に、人の様な顔の形で浮かび上がるものである、などと解釈されている。また、煙の妖怪である煙々羅は、ぼんやりと無心に煙でも眺めるような、心に余裕を持つ人でなければ見られない妖怪である、とする説もある一方で、煙々羅の別名「煙羅煙羅」を「閻羅閻羅」と表記するともいい、「閻羅」は「閻魔」に通じる事から、地獄の業火のイメージがある妖怪である、とする解釈もある。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
煙々羅のデザインは、立ち昇った煙の中から浮かび上がった顔という姿の妖怪に描きました。

2020年4月19日日曜日

「縄筋」



縄筋(ナワスジ)<ナオ筋>

香川県坂出市や兵庫県に伝わる怪異、または民間信仰の一つ。悪魔や化け物の通路とされる道のことで、先が見えないほど細長い一本道とされ、このような場所に家を建てると凶事があるといわれる。同様に岡山県岡山市東河原、西河原、赤磐郡赤坂町(現在の赤磐市)では魔物の通り道とされる場所を「ナメラ筋」「ナマムメ筋」「魔物筋(まものすじ)」などと呼び、家を新築する際にそうした場所を避けるよう十分気を配る風習がある。また兵庫県佐用郡では、縄筋で転ぶと病気になるといわれ、縄筋に近づくことを避けるという。1939年(昭和14年)ごろ香川県の川津村(現在の坂出市)で、縄筋に宿直室が建てられ、そこに五人の職員たちが交代で泊まることになったが、真夜中、寝ている最中に何者かに胸を締めつけられた。苦痛で目を覚ますと、黒い顔に赤い口の化け物を見たり、風もないのに窓ガラスが揺れたり、窓の外を何者かが走り去っていく音や、窓に砂利が投げつけられるような音を聞くようになり、五人全員が怪異に遭遇したという。そのため、市の職員と話し合い、神棚を作って神主にお祓いをしてもらったところ、この怪現象は抑まったという。

出典:
Wikipedia
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
縄筋のデザインは、縄筋である道を通り道にしている魔物や悪霊の姿をイメージして描きました。

2020年4月18日土曜日

「雪鬼」



雪鬼(ユキオニ)

日本の秋田県鹿角市に伝わる妖怪または鬼。昔、町から遠く離れた山奥に一軒家があって、そこに夫婦が仲良く暮らしていた。ある冬の日、その日は朝から雪が物凄く降り、雪と共に吹く風も物凄く吹きすさぶ日であった。その日、夫は町に用がある為、「こんなに雪の降る日に出掛けなくてもいいのに」と妻が止めるのも聞かず町へと出掛けて行った。あまり雪が降るので妻が何の気なしに外を眺めていると、夫が出掛けて行ってからしばらくして、雪の降る中を妻のいる家に向かってやって来る者がいた。妻はてっきり、あまりの吹雪に夫が町へ行くのを諦めて家に引き返して来たのかと思ったのだが、その者の顔をよく見れば、頭には長い角が生え、口には鋭く尖った牙を生やした鬼であった。妻は慌てて、囲炉裏の上にある火棚の上に上がって隠れた。それから間もなく鬼は家に入って来た。鬼は座敷に上がって来て戸棚や板戸を乱暴に開け放ち妻の姿を捜し回った。鬼はしばらく捜している内に、火棚の上から妻の黒い長い髪が下がっているのを発見し、その長い髪を鬼は引っ張って、妻を火棚の上から座敷に引きずり下ろした。それから鬼は、座敷に引きずり下ろした妻を頭からむしゃむしゃと食ってしまった。やがて、何も知らない夫が町での用を済ませて帰って来た。家に帰って来ると妻の姿は無く、家の中はあちらもこちらも辺り中、血まみれであった。夫は妻が鬼に食べられたのだと気付き「大変だ。妻は鬼に食べられてしまったんだ。今朝行く時、妻が止めたのに……ああ、行かなければよかった。なんというむごい事をしてしまったのか」と出掛けた事を悔やんだが、もうどうしようもない事だった。次の日も、やはり雪が沢山降っていた。夫は「きっと今日も鬼が現れるかもしれない」と思って、囲炉裏に隠れてじっと座って待っていた・すると、大雪の中、やはり鬼がやって来た。鬼は「居るか?」と言って戸口から入って来て、座敷に上がって来た。鬼は囲炉裏の近くにじっと座っている夫の姿を見つけると「なんだ、居るのか。居るのなら返事をしたらいいだろう!」と言った。それでも夫は押し黙って下を向いてじっと座っていた。すると鬼は夫を食べようと、毛むじゃらの大きな手で、夫の肩をむんずと掴み掛かった。その時、夫は振り向きざまに鉈で鬼の額を斬り付けた。額を斬り付けられた鬼は「痛い!」と一声上げて外に飛び出した。夫も外に逃げた鬼の姿を追って外に出てみたが、そこにはもう鬼の姿は無かった。ただ、真っ白い雪の上に鬼の額から流れた血がポタポタと跡になって続いていた。夫はその血の跡を辿って行った。血の跡は山を二つも三つも越えており、その先に一本の大木があって、その大木の所で血の跡は消えていた。夫は恐る恐るその大木の後ろに回ってみると、その大木の洞になっていて、その洞の中で鬼が丸くなって死んでいた。夫は洞に入ろうとしたが「待てよ、本当にこの鬼は死んでいるんだろうか?」と思った。恐る恐る鬼の肩に手をかけて揺すってみたが、鬼は動かなかった。夫はそれを確認し、「鬼はやっぱり死んでいるな。これでやっと、妻の仇討ちが出来た」とそう思うと、夫の目から涙がすっとこぼれた。その帰り道、夫は妻との色々な思い出を思い出しながら、家に帰って来た。しかし、妻の居ない我が家は寒く、また、とても寂しかった。それからしばらくして夫は風邪を引き、その風邪をこじらせて死んでしまった。その様な事があってから、「雪が沢山降る日は外へ出るものではない。雪鬼が現れる」と言われるようになったのだという。

出典:
妖怪尽くし
スーちゃんの妖怪通信

作者ひとこと:
雪鬼のデザインは、人を喰おうと大きな口を開けた鬼の姿に描きました。

2020年4月17日金曜日

「塗坊」



塗坊(ヌリボウ)

日本の長崎県壱岐地方に伝わる妖怪。塗坊は、夜の山道を歩いていると、山側から突き出てくる妖怪なのであるという。その山側から突き出てくる塗坊が、どのような形態の妖怪なのかは資料にも記されていない為、不明であるが、塗坊の出現する場所は決まっているのだという。柳田国男は、この塗坊を「塗壁」に似たものとして「妖怪名彙」に分類しているが、塗坊が記されている原典では塗坊がどのような形態の妖怪なのかは詳しく述べられておらず、何を根拠として塗壁と同類の妖怪とされているのかは不明。しかし一説では、塗壁も塗坊も、どちらも路上に出現する怪異である事、また名称が似ている事から塗壁の類話とされたのではないかとの説もある。昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、塗坊は灰色の化け物であり、棒で叩くか、路傍の石などに腰をかけて一服しているとじきに消え去る妖怪である、などとの解釈もある。

出典:
Wikipedia(「塗壁」のページ)
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
塗坊のデザインは、泥の塊の様な、ブヨブヨの肉の塊の様な姿の妖怪に描きました。

2020年4月16日木曜日

「面影」



面影(オモカゲ)

日本の秋田県鹿角地方に伝わる怪異。人が死ぬ直前、その人の魂が本人そのものの姿となって知人や家族の前に姿を現したり、訪れたりする。また、姿を現す事はないが下駄の音だけをさせたりする事もある。日清、日露、太平洋戦争の戦時中には、遠く離れた戦地にいるはずの人が、親や知人の前に姿を現したという事があり、丁度その頃、その人は戦場で戦死していたという話は多く伝えられている。面影は死んだ時の姿そのままで現れるようで、幽霊と違い足もあるという。岩手県遠野でいう「オマク」、青森県西津軽の「アマビト」など面影に似たような怪異、現象は全国各地に伝わっている。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
面影のデザインは、笠を被って顔が見えない侍の様な男の姿に描きました。笠で顔が見えないのは、顔を見えなくする事で、この世の存在ではない事を表しています。

2020年4月15日水曜日

「雲外鏡」



雲外鏡(ウンガイキョウ)

鳥山石燕の「画図百器徒然袋」に登場する妖怪。その解説文によると、化け物の正体を明らかにする鏡である「照魔鏡(ショウマキョウ)」をモデルに描かれたことが分かる。子供向けの妖怪本には、狸のような姿で腹の部分に何でも映せる鏡をつけた妖怪として描かれたことがある。これは、昭和43(1968)年に公開された映画「妖怪大戦争」による影響で、まったくの創作である。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
雲外鏡のデザインは「百器徒然袋」に描かれている絵を元にして描きました。

2020年4月14日火曜日

「肝取り」



肝取り(キモトリ)

日本の長野県や鹿児島県に伝わる妖怪。長野県東筑摩郡では、肝取りは「隠し神」の類とされており、夕飯を食べない人を攫っていく妖怪であるとされている。鹿児島県出水郡では、肝取りは「火車」や「魍魎」の類とされており、葬式の終わった後、墓場に出る妖怪であるとされている。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
肝取りのデザインは、鬼か獅子の様な頭だけの妖怪の姿に描きました。

2020年4月13日月曜日

「うわん」



うわん

江戸時代の妖怪画に描かれている日本の妖怪。元文2年(1737年)に成立した佐脇嵩之の「百怪図巻」に描かれているが、説明文はなく正体は不明である。安永5年(1776年)に刊行された石燕の「画図百鬼夜行」などにも描かれている。「百怪図巻」に見られる妖怪を多く収録している点から、同書の制作にあたったと思われる石燕が、同系統の絵巻を参照したとみられている。お歯黒を付けた妖怪が両手を振り上げ、怒鳴りつけて脅かすかのような姿で描かれているが、これまた石燕による解説文はない。日本の中世には、お歯黒は公家や武家の男子も行なっていたことから、そのような家柄の妖怪、もしくは熊本県阿蘇郡小峰村(現・上益城郡山都町)でお化けを「ワンワン」、鹿児島県郡谷山町(現・鹿児島市)で化物を「ワン」ということから、その系統の妖怪と推察されている。「化物づくし」などの絵本にも同じ妖怪が描かれているが、やはり絵のみでどのような妖怪かは不明。山田野理夫の「東北怪談の旅」には、青森県のある屋敷で「うわん」という声だけを響かせる話があるが、おそらく創作だと思われる。また、佐藤有文の「日本妖怪図鑑」には、うわんは墓場の主で、「うわん」と呼びかけられたら、すぐに「うわん」と答えないと棺桶に引きずり込まれるなどの記述があるが、これも創作されたものだろう。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
うわんのデザインは、大きく口を開けた妖怪の姿に描きました。

2020年4月12日日曜日

「テンマル」



テンマル

日本の群馬県甘楽郡秋畑村(現在の甘楽町)に伝わる妖怪または怪物。テンマルは人間の死体を食いに来る妖怪である。テンマルに死体を食われないように、死体には埋葬した上から目籠を被せておけば良いという。死体を食べるテンマルは「火車」や「魍魎」の類であるともされる。山口敏太郎著「江戸武蔵野妖怪図鑑」の「てんの火柱」の項目に「てんまる」と呼ばれる妖怪が載っており、東京都青梅地方に伝わるという。詳しい事はわからないが、年を経た「狢」が変化したものだという事から、人を化かすのを得意としていたのではないかと思われる。

出典:
Wikipedia(「火車(妖怪)」のページ)
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
テンマルのデザインは、狢の様な獣の姿の妖怪に描きました。

2020年4月11日土曜日

「灰坊主」



灰坊主(アクボウズ)

日本の秋田県や岩手県に伝わる妖怪。秋田県仙北郡や雄勝郡では、灰坊主は囲炉裏の灰の中に住んでいる妖怪であるとされ、囲炉裏の灰をいじったり、囲炉裏の灰を掘ると灰坊主が現れるという。その事から、古より囲炉裏の灰をいじっていると「灰坊主が出る」と言って戒められた。灰坊主と言う名前の「灰(アク)」とは「灰(ハイ)」の事を意味しており、灰坊主の「坊主」は僧を意味する坊主ではなく、怪物を意味している。岩手県九戸郡では、風呂に2回入ったり、裸で便所に入ったり、一膳飯(一般的に一膳飯は仏様と同じだから不吉であるとされた)を食べたりすると、灰坊主が現れるとされ、それらの行為は戒められた。また岩手県九戸郡では炉の灰の中にいる妖怪は「天邪鬼」であるともされており、天邪鬼は炉の灰を掘ると出てくるとされている。秋田県にしろ岩手県にしろ、灰坊主が実際に現れたという伝承や話が確認されていない事もあって、灰坊主は囲炉裏の灰を悪戯してはいけないという教訓的な妖怪であると思われる。

出典:
Wikipedia
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
灰坊主のデザインは、体が囲炉裏の灰で出来ている妖怪の姿に描きました。

2020年4月10日金曜日

「アクドボッポリ」



アクドボッポリ

日本の岩手県二戸市浄法寺町に伝わる妖怪。夕方や夜などに墓地や大木の下、人気のない寂しい場所を通ると、何かが足の踵に纏わり付くというもの。この踵に纏わり付いてくるのがアクドボッポリである。人が歩いているとアクドボッポリが後ろからついて来て、その人の踵に取り憑くのだと言う。アクドボッポリは、人の踵に纏わり付く他、踵を齧ったり、歩いている人の進行方向の土が盛り上がったかと思うと、今度は後ろの土が盛り上がる、歩いている人の後ろからついてくる、といった事もアクドボッポリの仕業であるとされている。いずれにしても、アクドボッポリは歩いている人の歩行を邪魔するが、アクドボッポリの姿は見えないのだという。アクドボッポリと言う名前の「アクド」は「踵」を意味し、「ボッポリ」というのは足に纏わり付く時の擬音を表しているらしい。九戸郡九戸村長興寺では、同様の妖怪を「アドポップリ」と呼んでいる。

出典:
ファンタジィ事典mini
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
アクドボッポリのデザインは、モグラかタワシの様な姿をした妖怪に描きました。

2020年4月9日木曜日

「アグトネブリ」



アグトネブリ

日本の岩手県九戸郡に伝わる妖怪。闇夜を歩いていると、このアグトネブリが後ろからつけて来て、その歩いている人の踵を舐めるのだと言う。アグトネブリと言う名前の「アグト」は「踵」、「ネブリ」は「舐める」という意味である。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
和漢百魅缶
幻想動物の事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
アグトネブリのデザインは、大きな舌を出した、モグラかタワシの様な姿をした妖怪に描きました。

2020年4月8日水曜日

「アマネサク」



アマネサク

日本の岩手県二戸市に伝わる妖怪。アマネサクは炉の灰の中にいる妖怪であるとされる。炉の灰を弄ぶ人がいると、アマネサクが炉の灰を弄んだ人を、炉の灰の中に引きずり入れて食ってしまうのだと言う。このアマネサクは「天邪鬼」の事であるとする説もある。

出典:
Wikipedia(「灰坊主」のページ)
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
アマネサクのデザインは、坊主頭の小鬼の様な姿の妖怪に描きました。

2020年4月7日火曜日

「タダリボッコ」



タダリボッコ<タダリボツコ>

日本の青森県八戸地方に伝わる妖怪。佐藤清明の「現行全国妖怪辞典」には、タダリボッコは物の怪と云った如きもので様々の怪を云うとある。タダリボッコとは、物の怪の様なもので、様々な怪異の総称の様なものであるかと思われる。

出典:
もののけ神社社務日誌

作者ひとこと:
タダリボッコのデザインは、不気味な顔の大きな頭と手足だけの姿の妖怪に描きました。

2020年4月6日月曜日

「ナガミ」



ナガミ

日本の岩手県久慈市に伝わる妖怪、または行事。岩手県九戸郡久慈町では小正月に「天ナガミ」という者がやって来るのだと言われている。この天ナガミは子供の行事であって、子供達が天ナガミに扮して「ホロロ、ホロロ」と唱えつつ家々を訪れて、その家の人に餅を乞う、と言う行事なのであるという。

出典:
Wikipedia(「なまはげ」のページ)
釜石の日々(「三陸沿岸にもナマハゲはあった」のページ)
妖怪が集う遊宴(「妖怪が湧く書庫」の「妖怪古意 ―言語と民俗との関係― 柳田國男」のページ)

作者ひとこと:
ナガミのデザインは、天ナガミとも言われているそうなので、背中に羽を生やしており、飛んでやって来る妖怪の姿に描きました。

2020年4月5日日曜日

「山人」



山人(ヤマヒト、ヤマビト)

日本の秋田県の北部に伝わる、山中にいる妖怪、または異人。山人は青森県との境にあたる田代嶽にいる者であると言われている。ある人が、この山人に煙草をあげたところ、山人は煙草を貰った礼に、この人の仕事である、マダの木の皮を集める仕事を手伝ってくれたのだという。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
山人のデザインは、山伏の様な格好をした、天狗か鬼の様な姿の妖怪に描きました。山の中にいる者なので、山の神などをイメージしながら描きました。

2020年4月4日土曜日

「布這い」



布這い(ヌノバイ)

日本の青森県に伝わる妖怪。布這いは、布を引く様に地面をうねり歩く妖怪であると言う。

出典:
【妖怪図鑑】 新版TYZ

作者ひとこと:
布這いのデザインは、全身が布で出来ているお化けの様な姿の妖怪に描きました。

2020年4月3日金曜日

「耳塚」



耳塚(ミミヅカ)

日本にある、戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚である。「鼻塚(ハナヅカ)」ともいう。昔、戦で敵兵を討ち取った証拠として首の代わりに切り取った耳を埋めた塚である。日本全国に耳塚と呼ばれるものは多数存在する。戦国時代までの武士は戦功の証として、高級将校は死体の首をとって検分し、その首は首塚で供養していたが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低い者は鼻や耳でその数を証した。切捨御免など戦功とならない殺人は検分や供養をしない為、打捨と呼ばれていた。また、耳を患っている人が耳塚に祈願を込めると効験があるなどと言われていた。

出典:
Wikipedia
コトバンク

作者ひとこと:
耳塚のデザインは、頭が耳になっている姿の神か精霊の様に描きました。このデザインの耳塚の精霊は、耳を患っている人の病を取り除いてくれる耳塚の精霊の姿をイメージして描きました。

2020年4月2日木曜日

「美與利大明神」



美與利大明神(ミヨリダイミョウジン)<美与利大明神>

日本で信仰されている神で、宮城県石巻市に属する島、田代島の「猫神社」に祀られている。美與利大明神は島の漁師にとって大漁の守護神であり、この神は猫の神(猫神様)である。田代島ではかつて養蚕が行われていた為、蚕の天敵である鼠を駆除してくれる猫が飼われており、島民から大事にされていた。江戸時代後期に定置網漁の一種である大謀網(だいぼうあみ)が三陸海岸中部で興ると、それが隣接する仙台藩気仙郡(気仙沼)を経由して田代島にも伝わり、それが改良されて田代型マグロ大網となった。この経緯から、田代島沿岸での大謀網は気仙沼周辺から来る漁師と、田代島の島民によって営まれ、島内にいくつもの「番屋(作業小屋兼簡易宿泊所)」が設置された。すると番屋に寝泊まりする気仙沼の漁師達の食べ残しを求めて猫達が集まるようになり、漁師達と猫達との関係が密になって、漁師達は猫の動作などから天候や漁模様などを予想する風習が生まれた。また、田代島には猫神様(美與利大明神)が祀られる経緯となった話が伝わっている。ある日、漁師が船の錨を作る為、石砕をしていた時、飛び散った石が一匹の猫に当たり、瀕死の重傷を負わせてしまった。その事に心を痛めた網元が、今後の猫の安全と大漁を祈願して小祠を作って祀ったところ、大漁が続いて、漁師の海難事故も無くなった。その後も網元である阿部家がその小祠(猫神社)の神主を務め、毎年3月15日には猫神社にマグロと御神酒を供物として捧げていたのだと言う。この話には、少し違った説もある。ある日、大謀網を設置する為の重しの岩を漁師が採取していたところ、岩が崩れ、その崩れた岩が猫に当たり、猫は死んでしまった。この事に心を痛めた網元は、その死んだ猫を葬ったところ、それから大漁が続き、漁師達の海難事故も無くなった。その為、葬られた猫は猫神様(美與利大明神)となったという。

出典:
Wikipedia(「田代島」のページ)
PETomorrow

作者ひとこと:
美與利大明神のデザインは、屏風のある雲に乗っている招き猫の様な姿に描きました。大漁を招き寄せているイメージです。

2020年4月1日水曜日

「地蟲様」



地蟲様(ジムシサマ)

日本の岩手県遠野市に伝わる民間信仰の神、または妖怪。その姿は眼のない蛇の様で、モグラの様な手足を持っている。地中を動き回り、特定の場所に棲みつくとされている。地蟲が棲みついた土地からは、真っ白な石が出るが、これは地中で地蟲が吐き出した息が固まったものであるとされ、この様な石が出る場所に人々は「白石大明神」や「地蟲龍神」と彫った祠を立てて、そこは耕さない土地とし、人の手が入らぬ林か森の様になっている。また、いつもは人の手が触れられていない場所であるが、田植えの始まりの時期になると、人々がやって来て、この場所の土を一掴み持って行き、自分の田にまく。地蟲のいる所の土には、地蟲の息が含まれているとされ、この土をまいた田の米は病にかからず、豊作になるとされ、農家の人々からは田の神としても信仰されている。

出典:
日本の妖怪と民族神(モンキー出版)

作者ひとこと:
地蟲様のデザインは、眼の無い蛇の頭と、首と尾、モグラの胴体と手足を持った龍の様な姿に描きました。田の神でもあるとされているので、頭からタテガミの様に稲穂が生えています。