自己紹介

このブログでは、僕が描いた神話や伝説などに関する絵や、その絵の解説を載せています。
(イラスト、記事の執筆:マゴラカ、ワンタ) ※2024年度より、月・水・金曜日の21時に更新していきます。

2021年5月31日月曜日

「オサト様」


オサト様(オサトサマ)

日本で信仰されている神。オサト様は、日本海側、新潟県から山形県にかけての狩猟民や、樵などの山の民が信仰する山の神。このオサト様は男性のみが祀る神である。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
オサト様のデザインは、浮遊する鹿の頭の様な姿の神に描きました。

2021年5月30日日曜日

「イシバ様」


イシバ様(イシバサマ)

日本で信仰されている神。八丈島などで、神を祀った聖地を「イシバ」といい、そこに祀られている神を「イシバ様」という。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
イシバ様のデザインは、目が四つある神の姿に描きました。聖地に天から天降って来て、そこに依り憑くイメージです。

2021年5月29日土曜日

「芋明神」


芋明神(イモミョウジン)

日本で信仰されている神。芋明神は、疱瘡(天然痘)の守護神である。中部地方では疱瘡のことを「いも」と呼んでいた。これは恐らく疱瘡の症状の一つである発疹、つまり「疣(いぼ)」が転訛したものだと思われる。近代医療が発達し、種痘が普及するまでは、疱瘡は恐ろしい病の一つであった。感染力や致死性が極めて高い伝染病で、たとえ生き延びて完治したとしても、多くの場合、発疹の痕が残り、醜い痘痕面(あばたづら)になってしまう。江戸時代の文化・文政期に編まれた武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部)の地誌「新編武蔵国風土記稿」によれば、寛永年間(1624年~1643年)に、慶珊寺に仕える茂右衛門(もえもん)なる寺男が蛇を殺したのを見た住僧の伝雅が、殺された蛇に経をあげたところ、霊童子の姿となった蛇が伝雅の夢に現れ、「経文の功徳により成仏できたので、今からは疱瘡患者を守護する」という旨を伝雅に伝えてきた。夢から覚めて起きた伝雅は、枕元に蛇の抜け殻があるのを見て、これを神意と見て社を建て、楊柳観音(ヨウリュウカンノン)を本地仏とする「芋明神」を祀った。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
芋明神のデザインは、観音菩薩の様な上半身と蛇の下半身という姿をした神に描きました。

2021年5月28日金曜日

「家内神」


家内神(ケタイガミ)

日本で信仰されている神。家内神は、宮城県地方の密教影響下の民俗信仰である。人は生まれ年によって守り本尊が決まっている。これが「家内神」である。例えば鰻は「虚空蔵菩薩(コクウゾウボサツ)」の化身なので、虚空蔵菩薩が守り本尊(家内神)となっている丑年や寅年の人は鰻を食べる事がタブーとなる。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
家内神のデザインは、この描いた家内神は丑年と寅年の人の家内神をイメージして描きました。鰻は丑年と寅年の家内神である虚空蔵菩薩の化身であるとされる為、イラストでは虚空蔵菩薩の姿ではなく鰻の様な姿の魚の神に描いてみました。この魚の姿の神は、人間の目には見えませんが、丑年と寅年の人、一人に一体ずつ近くにいて、自分が守護する人を守っているイメージです。虚空蔵菩薩の化身や眷族神の感じをイメージしています。

2021年5月27日木曜日

「甲子様」


甲子様(キノエネサマ)

日本で信仰されている神。甲子様は、60日に一度の「甲子の日(きのえねのひ。十干の最初の「甲(きのえ)」と干支の最初の「子(ね)」とに当たる日)」に信者が集まって祈る「甲子講(こうしこう、きのえねこう)」で祀られる神。ほとんどの甲子講では甲子の神は「大黒天(ダイコクテン)」であるとされる。甲子祭の夜には大黒天の掛け軸などをかけて礼拝する。特に、甲子待ちといって子の刻(午前0時頃)まで起きて、大豆や黒豆などを甲子様に供える。特に大祭を行うときなど、「大黒天」とか「甲子」と書いた塔を建てたり、福神の姿の大黒天の像を作ったりして祀る。甲子様と大黒天が結びついた理由として、大黒天と「大国主神(オオクニヌシノカミ)」が名前の類似から混同され、福の神として崇拝されたこと、大国主神の使いが鼠(=子)であることなどがあげられる。また、大黒天が北方の守護神であり、甲子が北方を意味するからだともいわれる。

出典:
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
甲子様のデザインは、甲子様が子の神だったり、大黒天を祀っている事から、そのイメージで、大黒天の様な福の神の様な衣装を纏った鼠の姿の神に描きました。

2021年5月26日水曜日

「秋山自在霊神」


秋山自在霊神(アキヤマジザイレイシン)

日本で信仰されている神。秋山自在霊神は、江戸時代に編纂された相模国(現在の神奈川県の大部分)の地誌「新編相模国風土記稿」において、その存在が触れられている痔の神。秋山自在霊神は神奈川県小田原市の妙泉寺にある「痔神社」と呼ばれる小祠に祀られている神で、本来はその一帯の土地を司る神であったと思われる。現在では訪れる人も少ないというが、かつては痔疾快癒の祈祷に訪れる信奉者も多く、薬で治せない痔疾患者の守護神として盛んに信仰されていた。先述したように、秋山自在霊神は元は土地の神であったのが痔瘻の守護神として信仰されるようになったのは、単に「地(ち)」と「痔(ぢ)」の音が通じ合っているためだと思われる。ある意味、いい加減な連想によって、秋山自在霊神は本来担当していない分野の守護を受け持つようになったわけである。「秋山自雲霊神(アキヤマジウンレイシン)」ともいう。また、秋山自雲霊神は江戸浅草玉姫町にある日蓮宗本性寺の境内神として祀られているものもある。こちらも痔の病に霊験のある神として広く喧伝された。新川の酒問屋岡田孫右衛門の手代善兵衛が7年にわたって痔疾に苦しみ、1744年9月21日に没し、秀山智想居士という戒名を与えられた。善兵衛は生前、痔疾の苦しみの中で「もし自分が死んだら、痔疾に悩む者を救おう」と誓っていたという。善兵衛の生前のこの誓願によって、彼は死後に秋山自雲霊神として祀られて人々に利益を与える神となった。この後、この秋山自雲霊神は日蓮宗の寺に祀られて、腰から下の病に霊験ありとして、多くの信者を集めているという。

出典:
コトバンク(「秋山自雲」のページ)
東洋神名事典(新紀元社)

作者ひとこと:
秋山自在霊神のデザインは、冠を被り衣を身に着けた、鬼神の様な姿の神に描きました。

2021年5月25日火曜日

「地縛霊」


地縛霊(ジバクレイ)

何らかの理由で自分の死が自覚出来ないまま死ぬ、また怨みや憎悪といった激しい感情を抱いて死ぬなど自分の死を受け入れられないまま死んだ場合に、土地や建物など特定の場所に固定化して現れるようになった霊のこと。ただ、同じ場所に出現する以外にも、死の直前の行動を繰り返す、怨んだ相手を滅ぼそうとする、無差別に通りかかった生きている人間に害を加えるなどの行動を取る事がある。現在ではメディアでも使われるなど普遍的な用語となっているが、元々は近代欧米で発展した心霊主義の中で生まれた言葉のようである。春川栖仙著「心霊研究事典」によれば、地上に思いを寄せ、執着を持ち、ただ何となく憑いている状態の未発達の霊魂の事を言い、よく幽霊現象が起きる場所等で怨恨を抱いてじっとしている霊であるとのこと。また同書では地縛霊がその場所に憑く理由として、相手を死滅、一家断絶させようという目的で憑く、戸惑い、偶然によって憑く、地上へ何らかの執着があって憑くと三つの原因を指摘している。日本における地縛霊の歴史も近代まで溯り、1934年に発行された浅野和三郎著「神霊主義」においてすでに「地縛の霊」という言葉が見え、また1941年に発行された「神霊文庫17篇 死者に交わる三十年から」には、浅野氏が1927年に記したという文章の中に「地縛の霊」という言葉が記されている。ここで言う「地縛の霊」は地上から離れられず、より高位の世界である「幽界」や「霊界」に向かう事が出来ない死者の霊、という意味で使われており、現在のような特定の場所に縛られる霊という意味はない。ただし前述した「死者に交わる三十年から」の中で、すでに自分の死に気付かず自殺を繰り返す霊が地縛の霊として数えられているのが見える。また1943年発行の岡田茂吉著「明日の医術」第三篇では自身が死んだ場所から動けなくなった霊の事を「地縛の霊」と呼んでいる。しかしこの時点ではまだこれは一般的な考え方ではなかったようだ。この地縛の霊、もしくは地縛霊が現在の形で広く使われる言葉となったのは恐らく1970年代以降だと考えられ、中岡俊哉氏や、つのだじろう氏らの著作の影響が大きいと思われる。オカルトブームの立役者となった彼らの作品では地縛霊は何らかの理由で特定の場所から動けない死者の霊として扱われている。そして、その他の地上を彷徨う霊については、浮遊霊(フユウレイ)という種類で分けられるようになったようだ。これら現代の地縛霊については大島清昭著「現代幽霊論」にてその特徴が考察されている。それによれば死者がその特定の場所に固定される原因は大別して三パターンがあるとし、「屍体が存在する(した)場所」、「自らが生命を落とした場所」、「生前、関わりが深かった場所」の三つのどれかに固定化されるという。

出典:
日本現代怪異事典(笠間書院)

作者ひとこと:
地縛霊のデザインは、スーツを着た足の無い男性の姿の幽霊に描きました。

2021年5月24日月曜日

「死霊」


死霊(シリョウ、シレイ)

死んだ者の霊 怨霊、幽霊、亡霊なども死霊といえる。死霊にまつわる話は古今を通して多く、古典文学や民俗資料などに数多く残されている。その中に語られている死霊の振る舞いも様々である。「広辞苑」によれば、死霊とは生きている人間に取り憑いて祟りをする怨霊の事とされるが、この様に生きている人間に取り憑いて苦しめる以外にも、自分を殺した者を追い回したり、自分が死んだ場所を彷徨っていたり、死の直後に親しい者のもとに挨拶に現れたり、更に生前に慕っていた者や親しい者の前に現れ、一緒にあの世に連れて行こうと殺す事もある。「遠野物語」には、娘と二人暮らしだった父親が死んだ後、娘の前に死霊となって現れ、「一緒にあべ、あべ(来い)」といって娘をあの世へ連れて行こうとしたという話がある。娘は怖がり、親類や友人に来てもらったが、それでも父親の死霊は娘をあの世へ連れて行こうと現れ、一月(ひとつき)ばかりでやっと来なくなったという。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
死霊のデザインは、死装束を身に着け足が無い、所謂幽霊といった姿に描きました。

2021年5月23日日曜日

「隅の婆様」


隅の婆様(スミノバサマ)

日本に伝わる怪異、または妖怪の一種。隅の婆様は、山形県米沢地方で行われる一種の肝試し、もしくは一種の民間降霊術で、そこに現れる妖怪である。まず4人の者が夜中に座敷に集まり、その部屋の四隅に一人ずつ座って灯りを消す。その次に4人は四隅から部屋の中央へと這い出し、真っ暗闇でお互いの姿が見えない中、各自の頭を探りながら「一隅の婆様、二隅の婆様…」と頭を撫でながら数えていく。この結果は4人しかいないので頭も4つしかないはずなのだが、何度数えても必ず一人多く5つめの頭があるという。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
隅の婆様のデザインは、暗闇の中でのみ現れる為、姿は不明なので長い髪の人間の様な頭と人間の手の様な体を持った異形の姿の妖怪に描きました。

2021年5月22日土曜日

「隅坊主」


隅坊主(スマボウズ、スミボウズ)

日本に伝わる妖怪の一種。岩手県和賀郡立花村平沢(現在の北上市)に伝わる隅坊主は、家の妖怪であるという。岩手県紫波郡佐比内村(現在の紫波町佐比内)の黒森という屋敷には隅坊主が居り、時々この家の上方から石が降ってくるという。また、お膳立てをしておいたお膳が見えなくなったかと思うと、ひょっこりと側に落ちてきたりすることもあるという。また、宮城県でも隅坊主は家の怪であると伝えられている。石川県鹿島郡では、八畳間の真ん中に一人で寝ていると、隅坊主という怪物が現れると伝わる。

出典:
幻想動物の事典
怪異・妖怪伝承データベース
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
隅坊主のデザインは、小坊主の様な姿の妖怪に描きました。

2021年5月21日金曜日

「アキュラセツ」


アキュラセツ

日本に伝わる妖怪の一種。アキュラセツは、富山県立山に現れると伝えられている妖怪である。立山の一ノ谷を見下ろす所に獅子ヶ鼻岩という立岩がある。その昔、この獅子ヶ鼻岩に住んでいた妖怪がアキュラセツである。アキュラセツは悪さをしては登山者達を困らせていた為、この地を旅していた弘法大師・空海が七日七夜護摩を焚き、祈願した。そして遂にアキュラセツは弘法大師の功徳に降参し、この地を去った。こうして登山者達の安全は確保されたのだという。「アキュラセツ」とは変わった名前であるが、恐らく「悪鬼羅刹」がなまったものではないかと考えられる。

出典:
ミステリーニュースステーション・ATLAS

作者ひとこと:
アキュラセツのデザインは、ヒキガエルの様な感じの悪鬼の姿の妖怪に描きました。

2021年5月20日木曜日

「速佐須良比咩神」


速佐須良比咩神(ハヤサスラヒメノカミ)

日本神道における女神の一柱で、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである「大祓詞(おおはらえのことば)」に登場する。「大祓詞」に拠れば、この速佐須良比咩神は根国(ねのくに)、底国(そこのくに)に坐す女神で、全ての罪穢を祓い捨てる女神とされる。この速佐須良比咩神は、「祓(はらえ、はらい。神道において罪や穢れ、災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術である)」を司る四柱の神々「祓戸大神(はらえどのおおかみ)」の一柱であるとされる。この速佐須良比咩神は、大祓詞以外の登場譚がほぼないが、「伊邪那美命(イザナミノミコト)」の御子神の一柱であるとされたり、また前述の大祓詞の記述から「須佐之男命(スサノオノミコト)」の御子神で「大国主神(オオクニヌシノカミ)」の配偶神である「須勢理毘売(スセリビメ)」と同神とされることもある。江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師「本居宣長(もとおり のりなが)」は、速佐須良比咩神を「風木津別之忍男神(カザモツワケオシオノカミ)」と同神であると説いている。

出典:神魔精妖名辞典

作者ひとこと:
速佐須良比咩神のデザインは、この女神が根国、底国にいる神という事なので、地底のイメージから土、土から土偶のイメージになり、更に地母神の感じもあります。頭の上にはすり鉢状の部分があり、地上から来る罪穢を一旦集めるイメージです。

2021年5月19日水曜日

「一目連」


一目連(イチモクレン、ヒトツメノムラジ)

日本で信仰されている神 一目連は、三重県桑名市でいう暴風の神。この一目連は三重県桑名市多度町多度にある多度大社の別宮の一目連神社に祀られている。一目連は暴風神、雷雨神としての性質から、この神の出現時に激烈なる暴風雨を伴うとして、人々から恐れられていた。江戸時代中期の旅行家「百井塘雨(ももい とうう)」の紀行「笈埃随筆(きゅうあいずいひつ)」には一目連について次のようにある。[多度権現の摂社の一目龍社は、扉もなくただ簾がかかっているだけの小さな社である。この社の神が外出する際には、大雨が降り雷がしきりに鳴って、黒い雲が屋根すれすれのところを通って行く。この土地の者は、この神が外出すると風はおさまり、海上も穏やかになると言って喜ぶが、他国の者はこれを嫌う。他国では田畑が荒れ、何もかも飛ばされてしまうからだ。人はこの神を一目連と呼ぶのは間違いである。一目連の名は一目龍のことであろう]などと記されている。毎年7月~8月頃に暴風雨が訪れると、土地の者は「この風は一目連が出かけるのだから止みはしない」とか、「もう出かけた後だから風は止む」と言ったりする。また、伊勢・尾張・美濃・飛騨では一目連が神社を出て暴れると暴風が起きるとの伝承がある。また、一目龍社の社殿に扉がなく、簾がかかっているのは一目連が神威を発揮するために自由に出入りできるようにとの配慮であるという。この一目連という神は、日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神「天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)」と同一視されるが、本来の一目連は、多度大社社殿の背後にある多度山に住んでいた、片目の潰れた龍神であるという。

出典:
Wikipedia(「天目一箇神」のページ)
ピクシブ百科事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
一目連のデザインは、一つ目だけがある球形の姿の神に描きました。

2021年5月18日火曜日

「榊鬼」


榊鬼(サカキオニ)

日本に伝わる神、または鬼。榊鬼は、愛知県北設楽郡の村々で行われている「花祭(はなまつり)」(愛知県北設楽郡等に伝承されている霜月神楽の総称)に登場する鬼である。榊鬼は、サカキを腰にさしたり手に持って登場する。榊鬼は祭りの当日、村内の家々をめぐって悪霊をはらい、病人の悪いところを踏み、舞処(まいと)では反閇(へんばい)と称する足踏みを中心とした舞を演じて、悪霊を踏み鎮める。この榊鬼の反閇は最も神聖なものとされた。また、この榊鬼は反閇を踏むことで、大地に新しい生命力や活力を吹き込み、自然の恵みや、五穀豊穣をもたらしてくれる鬼であると言われている。この榊鬼は、花祭に登場する鬼の中で、最も重要な鬼であるとされる。

出典:
東栄町
コトバンク

作者ひとこと:
榊鬼のデザインは、衣を身に纏った鬼神の姿に描きました。鬼の顔に見えるのは、実は顔に鬼の面を付けている姿で描いてみました。

2021年5月17日月曜日

「茶袋」


茶袋(チャブクロ)

日本に伝わる妖怪、または怪異の一種。茶袋は、高知県幡多郡奥内村(現在の大月町)に伝わる妖怪である。この茶袋は「茶袋」というその名の通り、茶を煎じる為、もしくは茶の葉を入れる為に用いる袋である「茶袋(ちゃぶくろ)」の姿をした妖怪である。薄気味悪い道などに、茶袋が空中からぶら下がった状態で出現する。このぶら下がった茶袋にぶつかってしまった者は様々な病気になってしまうと言う。また、この茶袋に遭遇しただけでも、その者は様々な病気を患ってしまうとも言われた。土佐郡土佐山村(現在の高知市)高川集落でも、雨夜に大前平の「オンバが墓」という墓に茶袋が下がる怪異があったと伝わるが、茶袋が下がったとだけ伝わっていて、前述の茶袋の様に病気になるなどの害があったかどうかは不明である。和歌山県日高郡印南町などの印南川流域では、茶袋は「茶ん袋(チャンブクロ)」と呼ばれている。茶ん袋は、高い木の枝にぶら下がっていたり宙吊りで出現する以外にも、川の上に浮かんでいたり、空から飛んで来て現れるとも言われている。紀州の妖怪譚によれば、茶袋が人家もない寂しい川の流れの辺りを浮いたり沈んだりしたり、空中を彷徨ったりしたと言う。和歌山県の滝ノ口の橋免橋を男が渡っていると、川の中で大きく膨れ上がった茶ん袋が浮いたり沈んだりしていた。それを見た男は驚いたが、そのままそこを通り過ぎ、淵尻という所まで来ると、今度は男の首筋に冷たいものが落ちてきた。男は雨かと思い、ふと上を見ると、空中を大きな茶ん袋がふわふわと飛んでおり、その飛んでいる茶ん袋が雫を垂らしていた。茶ん袋は男の頭の上を2、3度飛びまわると、そのまま山の上へと飛び去ったと言う。和歌山県の椿原でも、夕方になるとこの茶袋の化け物が現れた。柳井畑川の流れを茶袋が上がったり下がったり行き来していたので、子供でもこの「椿原の茶袋」と言えば、子供達も皆、知っていたらしい。

出典:
Wikipedia
ピクシブ百科事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
茶袋のデザインは、茶袋に目と口が生えた姿の妖怪に描きました。袋の口を縛る紐が手になっています。

2021年5月16日日曜日

「マブイ」


マブイ

マブイは沖縄県に伝わる存在で、霊魂の事である。このマブイは、「魂」と表記される。いわゆる「生霊」にあたるものは「イチマブイ」、死霊にあたるものは「シニマブイ」と呼び、死後日の浅いシニマブイは大変危険だと言われている。霊魂であるマブイは、大変驚いた瞬間や転んだりした時に抜け出てしまう場合があり、それを「マブイウトシ(マブイ落とし)」と言う。マブイが抜け出た人は、無気力になったり病気になったりと、様々な障害が起こる。マブイウトシになった人が離れたマブイを取り戻すには、沖縄の霊媒「ユタ」に頼んで、ユタにマブイを戻す「マブイコメ」「マブイツケ」を行ってもらう必要があると言う。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
マブイのデザインは、ぼんやりと顔が浮かび上がった人魂の姿に描きました。

2021年5月15日土曜日

「木魚達磨」


木魚達磨(モクギョダルマ)

日本に伝わる妖怪で、江戸時代中期の画家、浮世絵師の「鳥山石燕(とりやま せきえん)」の妖怪画集「画図百器徒然袋(がずひゃっきつれづれぶくろ)」に描かれている。画図百器徒然袋には、達磨の様な髭の生えた顔をして円座にのっている、木魚と達磨が合体した様な姿の妖怪として描かれている。解説には「杖払木魚客板など、禅床のふだんの仏具なれば、かかるすがたにもばけぬべし。払子守と同じものかと、夢のうちにおもひぬ」と記されている。鳥山石燕の解説文中に「払子守と同じものかと」とあり、この木魚の妖怪の木魚達磨は、同じ仏具の払子の妖怪である「払子守(ホッスモリ)」の同類であると説明されている。魚は昼夜問わず目を開けたままである事から、木魚は本来、その不眠を象徴する魚を象ったものといわれ、修行僧に対して不眠不休の修行を説くために作られたものである。また、禅宗の開祖とされている「達磨大師(だるまたいし)」も9年間、不眠修行をしたという伝説がある。これらの事から、この木魚達磨は、眠らない物の連想として鳥山石燕が創作した妖怪であると考えられる。また、この木魚達磨は、古い器物に霊が宿って誕生する妖怪「付喪神(つくもがみ)」の一種とされており、木魚達磨は木魚の付喪神であるとされる。また一説には、この木魚達磨に取り憑かれた人間は不眠症になってしまうとも言われている。

出典:
Wikipedia
ピクシブ百科事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
木魚達磨のデザインは、「画図百器徒然袋」の絵を参考に描きました。

2021年5月14日金曜日

「八十松火」


八十松火(ヤソマツビ)

日本に伝わる怪火、または妖怪の一種。八十松火は、静岡県浜名郡神久呂村神ヶ谷(現在の浜松市西区)に伝わる怪火である。この怪火は、神ヶ谷神田原の水神様の池から、入野村の一本松を経て、浜名湖へと流れる川に現れるという。その昔「八十松」という小僧が、この地で主人の金を失くしてしまい自殺した。その自殺した八十松の霊が、この怪火となり、夜な夜な失くした主人の金を探す為に現れるのだと言われている。

出典:
妖怪邸・妖堂 日記帳
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
八十松火のデザインは、中にぼんやりと顔が浮かび上がっている怪火の姿に描きました。

2021年5月13日木曜日

「アカングヮーマジムン」


アカングヮーマジムン<アカングワー・マジムン>

沖縄県に伝わる霊、または妖怪で、「マジムン」と呼ばれる悪霊の一種。「アカングヮーマジムン」という名前の「アカングヮー」は「赤ん坊」、「マジムン」は「魔物」という意味で、このアカングヮーマジムンは赤ん坊の死霊である。このアカングヮーマジムンは、四つん這いで、出会った人間の股の下を潜ろうとする。もしアカングヮーマジムンに股の下を潜られてしまうと、その人間はこのアカングヮーマジムンは、四つん這いで、出会った人間の股の下を潜ろうとする。もしアカングヮーマジムンに股の下を潜られてしまうと、その人間はアカングヮーマジムンに魂を抜かれて死んでしまう。

出典:
怪異・妖怪伝承データベース
Wikipedia(「マジムン」のページ)
ピクシブ百科事典(「マジムン」のページ)
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
アカングヮーマジムンのデザインは、このアカングヮーマジムンが赤ん坊の死霊とされているので、幽霊の様に足がない赤ん坊姿の妖怪に描きました。

2021年5月12日水曜日

「マー」


マー

沖縄県に伝わる妖怪の一種。マーは、その形態はよく分からないが、牛の鳴き声をする妖怪である。また、鹿児島県では「マー」は、妖怪を意味する児童語である。

出典:
怪異・妖怪伝承データベース
ファンタジィ事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
マーのデザインは、丸っぽい体の牛の様な姿の妖怪に描きました。

2021年5月11日火曜日

「囀り石」


囀り石(サエズリイシ)

日本に伝わる怪異、または妖怪の一種。囀り石は、群馬県に伝わる石の怪異である。この囀り石は吾妻郡中之条町大道にある。その昔、親の仇を探して諸国を旅していた男がこの地を通りかかり、この石を寝床として一夜を明かす事にした。夜中、男は人の話し声で目を覚ました。耳を澄ますと、その話し声はなんと自分が寝床として使っている、この石の中から聞こえていた。しかも、この石が話している話の内容は、男の探している仇の事であり、石はその仇の居場所まで話していた。男はこれぞ神仏の助けと信じ、石の話していた内容を頼りに、その場所へと赴き、遂にその仇を探し当て、見事に仇をとる事が出来て本懐を遂げたのであった。その後も、この石は幾度も声を発し、様々な事を話した。またその石が話す話の内容が人々にとって有益な事が多かったので、この土地の人々は、この石を神として祀る様になった。しかしある時、この石の近くを通りがかった旅人の前で、この石が喋り出した為、驚いた旅人が石の角を刀で斬り付けてしまった。それ以来、この石は何も言わなくなってしまったという。

出典:
Wikipedia
日本伝承大鑑

作者ひとこと:
囀り石のデザインは、大きな岩の姿に描きました。岩の神、または精霊のイメージで、目と人々に話す為の口を描いてみました。土地の人々から神として祀られていたので、注連縄もつけました。

2021年5月10日月曜日

「オッパショ石」


オッパショ石(オッパショイシ)

日本に伝わる怪異、または妖怪の一種。オッパショ石は、徳島県に伝わる石の怪異である。このオッパショ石、もとは徳島市二軒屋町に存在し、名のある力士の墓石とされていた。この墓が出来てから2~3ヶ月後、夜になると、この石が、石の前を通る人に向かって「オッパショ、オッパショ」と声をかけるようになった。「オッパショ」とは「背負ってくれ」という意味である。石に言われるがままに、この石を背負うと、最初は軽く感じるものの、次第に背負った石は重さを増したという。オッパショ石の噂が高まった為に、この石の側を通る人は少なくなったが、オッパショ石の噂を聞きつけた力自慢の男が、この石のもとを訪れた。男が石の近くに行くと確かに石は「オッパショ」と声を上げるので背負ったところ、石は次第に重くなり始めた。「この石には何者かが取り憑いている」と直感した男は、背負ったオッパショ石を力任せに地面に叩きつけたところ、オッパショ石は真っ二つに割れた。その後、この石が声を出す事は無くなったという。このオッパショ石が割れた話には別の話もあり、ある力士がオッパショ石を背負ったが、あまりにも重くなった為、石を落としてしまった。落ちたオッパショ石は真っ二つに割れた、という話も伝わっている。現在ではオッパショ石は、徳島市西二軒屋町と城南町の境にある焼香庵跡墓地に存在する。現在は割れた箇所をセメントで繋がれて、路傍を見下ろす場所に置かれている。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
オッパショ石のデザインは、大きな丸い石の姿に描きました。石の妖怪のイメージなので、目と口をつけてみました。

2021年5月9日日曜日

「こそこそ岩」


こそこそ岩(コソコソイワ)

日本に伝わる怪異、または妖怪の一種。こそこそ岩は、岡山県加賀郡吉備中央町に伝わる石の怪異である。こそこそ岩は5尺(約1.5m)程の岩で、夜分に人がこの岩の近くを通りかかると、「こそこそ」という物音、あるいは「こそこそ」と話し合う声が聞こえてきたという。

出典:
日本妖怪大事典(角川書店)
Wikipedia(「夜泣き石」のページ)
ピクシブ百科事典
神魔精妖名辞典

作者ひとこと:
こそこそ岩のデザインは、大きな岩の姿に描きました。岩の妖怪のイメージなので目があります。普段は目を閉じている為、普通の岩に見えるイメージです。

2021年5月8日土曜日

「払子守」


払子守(ホッスモリ)

日本に伝わる妖怪で、江戸時代中期の画家、浮世絵師の「鳥山石燕(とりやま せきえん)」の妖怪画集「画図百器徒然袋(がずひゃっきつれづれぶくろ)」に描かれている。画図百器徒然袋には、仏具の一つである払子(ほっす)の妖怪が天蓋の下で坐禅を組んだ姿で描かれている。解説には「趙州無の則に、狗子にさへ仏性ありけり。まして伝灯をかかぐる坐禅の床に、九年が間うちふつたる払子の精は、結加趺坐の相をもあらはすべしと夢のうちにおもひぬ」と記されている。「趙州無の則に、狗子にさへ仏性ありけり」とは、禅における公案(こうあん)の「狗子仏性(くしぶっしょう)」(「イヌにも仏性があるか」と問われた、中国の唐代の禅僧「趙州禅師(じょうしゅうぜん)」が「無」と返答したもの)から引かれており、イヌに仏性があるならば、禅寺で長年使われた払子の精も仏性を持っているのではないかと鳥山石燕は連想をし、その様な点からこの「払子守」は創作されたのではないかと考えられている。また、解説文中にある払子の使用された年数「九年が間」というのは、禅宗の開祖とされている「達磨大師(だるまたいし)」が壁に向かって9年間坐禅を組んだという伝説からの連想で数字が使われていると見られている。鳥山石燕は画図百器徒然袋においては、室町時代の妖怪絵巻「百鬼夜行絵巻(ひゃっきやこうえまき)」を多く参考にしており、同絵巻には払子を素材とした妖怪も登場している。妖怪研究家の多田克己(ただ かつみ)は、払子は中国では煩悩をもたらす悪魔を払うといわれたことから、「払子の成仏を妨げるものは存在しない」という事を鳥山石燕は表していると述べている。また、この払子守は、古い器物に霊が宿って誕生する妖怪「付喪神(つくもがみ)」の一種とされており、払子守は払子の付喪神であるとされる。また一説には、使い古された払子が夜中に踊り出したと言う話もある。

出典:
Wikipedia
ピクシブ百科事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
払子守のデザインは、「画図百器徒然袋」の絵を参考にして、座禅を組んだ払子の妖怪の姿に描きました。

2021年5月7日金曜日

「角盥漱」


角盥漱(ツノハンゾウ)

日本に伝わる妖怪で、江戸時代中期の画家、浮世絵師の「鳥山石燕(とりやま せきえん)」の妖怪画集「画図百器徒然袋(がずひゃっきつれづれぶくろ)」に描かれている。画図百器徒然袋には、角盥(つのだらい)の妖怪が描かれている。角盥とは漆塗りの洗面道具で、宮中などの女性が用いていた道具の一つである。解説には「なにを種とてうき草のうかみやらぬもやらぬ小野の小町がそうしあらいの執心なるべしと、夢心におもひぬ」と記されている。平安時代前期の女流歌人「小野小町(おの の こまち)」には、「草紙洗小町(そうしあらいこまち)」として知られる「草紙洗(そうしあらい)」の逸話がある。平安時代の歌人、官人である「大伴黒主(おおとも の くろぬし)」は、歌合(うたあわせ)で小野小町を相手にすることとなった。しかしとても勝ち目がないと考えた黒主は、歌合の前日、小野小町の邸に忍び込み、小町が明日のために詠んだ歌を盗み聞きする。歌合当日、歌人達が居並ぶ中で小町の歌が詠み上げられるが、黒主は「その歌は既存の古歌である」と難ずる。証拠として黒主が取り出した万葉集(まんようしゅう)の草紙には、確かにその歌が書き込まれていた。実はこれは、前日小町の歌を盗み聞いた黒主が、万葉集の草紙に予め書き足しておいたのである。窮地に立たされた小町だが、小町は黒主の入れ筆と見破り、歌人達の許しを得て、角盥に入れた水の中で、草紙のその問題の箇所の部分を洗う。するとたちまち黒主の書き足した歌は消え失せ、黒主の罪が明らかになったというものである。鳥山石燕は、この小野小町の草紙洗の伝説を題材にして角盥の妖怪を創作したのだろうと考えられている。また、この角盥漱は、古い器物に霊が宿って誕生する妖怪「付喪神(つくもがみ)」の一種とされており、角盥漱は角盥の付喪神であるとされる。一説には、この角盥漱は小野小町が草紙洗で使用した角盥が付喪神となったものであるとされる事もある。

出典:
Wikipedia
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日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
角盥漱のデザインは、「画図百器徒然袋」の絵を参考にして、角盥の妖怪の姿に描きました。

2021年5月6日木曜日

「骨傘」


骨傘(ホネカラカサ)

日本に伝わる妖怪で、江戸時代中期の画家、浮世絵師の「鳥山石燕(とりやま せきえん)」の妖怪画集「画図百器徒然袋(がずひゃっきつれづれぶくろ)」に描かれている。画図百器徒然袋には、和紙が剥がれて骨ばかりとなった古い唐傘の妖怪が鳥の様な形をして、火を纏って宙を舞う姿で描かれており、解説には「北海に鴟吻と言へる魚あり。かしらは龍のごとく、からだは魚に似て、雲をおこし雨をふらすと。このからかさも雨のゑんによりてかかる形をあらはせしにやと、夢のうちにおもひぬ」と記されている。鴟吻(しふん。鴟尾(しび))は、日本における鯱(しゃちほこ)の原型であり、雨を呼ぶ火災除けの飾りとして屋上に設置されるものである点から、鳥山石燕はこの鴟吻から雨と結び、雨から傘を連想して、この「骨傘」を描いたのではないかと考えられている。また、この骨傘は、古い器物に霊が宿って誕生する妖怪「付喪神(つくもがみ)」の一種とされており、骨傘は唐傘の付喪神であるとされる。漫画家の水木しげる(みずき しげる)の著作では、骨傘は、風も無いのに傘を勢いよく開いて骨だけにしてしまう悪戯をする妖怪とされており、また、この骨傘は、古びた唐傘が温度と湿り気によって妖怪となったもので、踊り出すとも解説されている。

出典:
Wikipedia
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日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
骨傘のデザインは、「画図百器徒然袋」の絵を参考に描きました。

2021年5月5日水曜日

「髪鬼」


髪鬼(カミオニ)<鬼髪(キハツ)>

日本に伝わる妖怪で、江戸時代中期の画家、浮世絵師の「鳥山石燕(とりやま せきえん)」の妖怪画集「画図百器徒然袋(がずひゃっきつれづれぶくろ)」に描かれている。画図百器徒然袋には、ぼさぼさの毛髪が角の様になった女性の姿が描かれており、解説には「身体髪膚は父はは(母)の遺体なるを、千すじの落髪を泥土に汚したる罪に、かかるくるしみをうくるなりと言ふを、夢ごこちにおぼえぬ」と記されている。古来より人間の頭髪には不思議な力があると信じられており、その様な伝承を元に鳥山石燕は、この髪鬼という妖怪を創作したとされている。また、この髪鬼は頭髪の妖怪であるとされており、人間の女性の怨みの念や嫉妬心が自分の頭髪にこもって、その頭髪が妖怪化したものとも言われている。髪鬼となった髪は、どんどん長く伸び、「髪鬼」という名前が示すように、あたかも鬼の角の様に逆立つ。髪鬼となって長く伸びた髪をいくら切り落とそうとも、どんどんと際限なく伸び続けてしまうという。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
髪鬼のデザインは、緋袴を履いた身体全てが毛髪で出来た鬼女の様な姿の妖怪に描きました。

2021年5月4日火曜日

「紙舞」


紙舞(カミマイ)

日本に伝わる妖怪、または怪異の一種。紙舞は、風もないのに何枚もの紙がひとりでに舞飛ぶという怪異である。この紙舞は、昭和初期の小説家・民俗学者の藤沢衛彦(ふじさわ もりひこ)の著書「妖怪画談全集 日本篇 上」にあるもので、そこには[紙舞(風なきに自ら紙一枚一枚づつ舞ひ歩く神無月の怪)]とあり、紙舞は神無月(10月)に現れ、紙がひとりでに一枚ずつ舞飛ぶものであるとされる。また、詩人・文芸評論家・翻訳家の山室静(やまむろ しずか)や小説家の山田野理夫(やまだ のりお)らによる書籍「妖怪魔神精霊の世界」によれば、この風もないのに紙を舞飛ばしているのが「紙舞」という名の妖怪の仕業とされている。ただし、妖怪研究家の村上健司(むらかみ けんじ)の指摘によれば、「妖怪画談全集 日本篇 上」で紙舞の解説に用いられている挿絵は、江戸時代の怪談「稲生物怪録(いのうもののけろく、いのうぶっかいろく)」のもので、主人公・稲生平太郎(いのう へいたろう)の体験した、家で鼻紙がひとりでに舞うものであり、これは平太郎の体験した数々の怪異の一つに過ぎず、紙舞という名の固有の妖怪ではない。なお「妖怪画談全集 日本篇 上」では紙舞の出現時期は神無月とされているが、「稲生物怪録」の時期は神無月ではなく7月である「妖怪魔神精霊の世界」では「紙舞」の名で、天保時代に強欲な金貸しが証文の束を見ながら算盤を弾いていたところ、証文が一枚一枚空中に飛び去ったという伝承が述べられている。これは、山田野理夫の著書「おばけ文庫」にある紙舞の物語が元となっているが、これも村上健司により創作と指摘されている。山田野理夫の著書には他にも、京都で小説家の書いた原稿がひとりでに舞い上がるという紙舞の話がある。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
紙舞のデザインは、舞飛ぶ習字紙に「へのへのもへじ」などの文字で出来た顔を持った姿の紙の妖怪に描きました。

2021年5月3日月曜日

「目目連」


目目連(モクモクレン)

日本に伝わる妖怪で、江戸時代中期の画家、浮世絵師の「鳥山石燕(とりやま せきえん)」の妖怪画集「今昔百鬼拾遺(こんじゃくひゃっきしゅうい)」に描かれている。今昔百鬼拾遺には、荒れ果てた廃屋の障子に無数の目が浮かび上がった姿で描かれており、解説には「煙霞跡なくして、むかしたれか栖し家のすみずみに目を多くもちしは、碁打のすみし跡ならんか」と記されている。つまり、碁盤に注がれた碁打師の目の念が、家の隅々に籠もって現れたのだろうか、という事である。妖怪研究家の村上健司(むらかみ けんじ)は、この目目連は鳥山石燕の創作物と指摘している。また、一つ目の神である「一目連(イチモクレン)」の名が、目の沢山ある、この「目目連」の名に関連しているとの指摘もある。小説家の山田野理夫(やまだ のりお)による日本の怪談集「東北怪談の旅(とうほくかいだんのたび)」には「障子の目」と題し、江戸の商人が津軽ヘ材木を買いに行き、宿代がもったいないと言って空き家に泊まったところ、障子に無数の目が現れたが、商人は恐れるどころか、これらの目を集めて持ち帰り、眼科医に売り飛ばしたという話があるが、この津軽で障子に現れた目の妖怪が目目連だとされる事もある。なお、この話の原典である「東北怪談の旅」には目目連の名はない。また、ある南部藩士が布団に入って寝ていたところ、足元に目玉が転がっており、その目玉からもう一つの目玉が生まれ、その繰り返しで周りが目玉でいっぱいになり、あくる朝には藩士自身の目がなくなっていたという話もあり、漫画家の水木しげる(みずき しげる)の書籍においては、この話に出てくる目玉の怪異は、目目連の一種とされている。また、水木しげるの次女・悦子は、中学時代の修学旅行先の京都府の旅館で、障子の格子に目の様なものが浮かび上がって動き回る現象を、同級生たちと共に目撃しており、水木しげるはそれを「目目連だ」と語ったという。この目目連は、夜の障子にびっしりと目が現れるという妖怪で、人を驚かせる以外に特に悪さはしない、とも言われている。

出典:
Wikipedia
ピクシブ百科事典
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
目目連のデザインは、舞飛ぶ障子紙に目が現れている姿の妖怪に描きました。

2021年5月2日日曜日

「野守虫」


野守虫(ノモリムシ)

日本に伝わる幻獣、または妖怪の一種。野守虫は、信州松代(現在の長野県長野市)に現れた怪蛇で、この野守虫については、江戸時代中期の俳人、小説家、国学者、絵師である「建部綾足(たけべ あやたり)」による随筆「折々草(おりおりぐさ)」、「漫遊記(まんゆうき)」に記述がある。その昔、信州松代のある若者が、友人と山に柴刈りに行った時、山中で大きな蛇が若者の足にくるくると巻き付いて来て、若者の喉に食いつこうとして来た。若者は強力者だったので、友人から鎌を受け取って、その巻き付いて来た蛇を切り裂いた。見れば、その蛇は全長一丈(約3m)あまりで、足が6本あり、その6本の足それぞれに6本の指が生えている。胴体は桶の様に太いが、頭や尾はそれに比べると細くなっていた。若者は武勇の証に、その蛇の死体の一部を山から持ち帰ったところ、若者の父親は「それは山の神に違いない。必ず祟りがあるだろう」と言って、若者を家から追い出した。家から追い出された若者は仕方なく小屋に住んだが、2日~3日経つと蛇の死体は悪臭を発し、若者にもその臭いが移った為に、それが原因で若者は病気となり、頭痛で寝込む羽目になった。その為医者を呼んで、医者から薬をもらい、それから入浴で蛇の臭いを落とす事で、すっかり病気も治り、身心ともに回復した。その医者が言うには、「これは蛇ではなく、野守という虫である。井に生ずる虫を井守(イモリ)、家に生ずる虫を家守(ヤモリ)と言い、野に生ずる虫を野守(ノモリ)と言う」との事であった。それから3年後、若者は、国で禁じられた山で官木を伐採した罪で処刑されてしまった。人々は若者の不運を、野守虫を殺してしまった事への祟りだろうと噂しあったと言う。

出典:
Wikipedia
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
野守虫のデザインは、伝承通り、6本指の生えた足が6本ある蛇の様な姿に描きました。

2021年5月1日土曜日

「クダベ」


クダベ

日本に伝わる幻獣、または妖怪の一種。クダベは、越中国(現在の富山県)の立山に出現した妖怪である。越中国・立山に山菜採りと採薬(サイヤク、山野で薬草を採集する事)を生業としている男がいた。この男が、ある時山に入ると、その山中でクダベという人面獣身の怪物に出会った。このクダベは山の精であり、クダベは出会った男に「我は歳久しくこの山に住めるクダベという者なり。今年より35年の間、原因不明の病気が流行る。いかなる薬も効かず多くの犠牲者が出るが、我が姿を描き写した絵図を一度でも見れば、その者は必ずその災難から逃れられるであろう」と予言した。これが評判になり、各地でクダベの絵を厄除けとして携帯する事が流行したという。クダベが、この山菜採りと採薬を生業とする男の前に出現したのは、文政10年(1827年)の事であると言われている。このクダベの話は、江戸時代後期の随筆「道聴塗説(どうちょうとせつ)」にもあり、道聴塗説では、このクダベの話を「近年流行せし神社姫の類」とし、この当時、流行していた「神社姫(ジンジャヒメ)」に似せて創作された好事家の作り話であろうと指摘している。このクダベについて漫画家の「水木しげる(みずき しげる)」は、クダベが人面の牛で腹部の両側面にも眼があったという事を根拠に、このクダベは中国の神獣「白沢(ハクタク)」の同類であるとし、「黄帝(コウテイ)」が白沢と遭遇した逸話と富山の売薬にクダベが関係があるとの見解を示している。

出典:
Wikipedia(「件」のページ)
日本妖怪大事典(角川書店)

作者ひとこと:
クダベのデザインは、三ツ目のある人面の牛の様な姿に描きました。クダベの姿を見ると病気などの災難から逃れられるというので、霊獣のイメージがあり、聖なる感じから天女などが付ける羽衣を付けてみました。